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礼拝メッセージより
説教題:「天国の網」 2002年2月17日
聖書:マタイによる福音書 13章47-50節
天国
天国ってどこにあるの。死んだ後に行くところ?みんなが行くところ?それとも限られた人だけが行くところ?
マタイによる福音書の13章には天の国についてイエスが語ったたとえがいくつも書かれている。44節以下の所では、天国は畑に隠されていた宝を手に入れるために、持ち物を全部売り払って畑を買うことにたとえられている。又そのすぐ後のところでは、商人が良い真珠を探していて、それを見つけたら見つけたら持ち物を全部売り払ってそれを買うことにたとえられている。
天国とは、全財産を売ってでも手に入れるに価するものであるらしい。そしてそれは全財産をなげうってでも手に入れたくなるような、欲しくて欲しくて仕方ないような、そんなもののようだ。けれども、天国は人間が自分の全てをなげうって手に入れるもの、というだけではない。そうしないと手に入れることができないものか、人間の努力によってでないと手に入れられないものかというと、そういうわけでもないらしい。
47節からのところでは、天国は、網が湖に投げ降ろされいろんな魚を集めることにたとえられている。網がいっぱいになると、岸に引き上げ、良いものを悪いものを分けるという。世の終わりにも、そのように天使たちが来て正しい人の中にいる悪いものどもをより分けるという。世の終わりには裁きがあるということは41節の所にも出てくる。天使たちが悪いものをよりわけて燃えさかる炉の中に投げ込む、と言われている。
そこを見ると、天国とは、網によって引き上げられることということになる。自分の力でそこへ登っていくところではなく、引き上げられるところ、それが天国ということのようだ。そしてそこへは、いい魚も悪い魚もみんな引き上げられる。いいか悪いかは結局は後にならないと、世の終わりにならないと分からないわけで、それを分けるのも天使がすること、つまり神の命令によって天使がすることということだから結局は神がわける、神がいいか悪いかの判断をするということになる。世の終わりにはそんな裁きがある、ということであるが、しかし天国へはいろんな魚が引き上げられていくわけだ。そして悪いもの、赦されない者は燃えさかる炉に投げ入れられるわけであるが、しかし実はもう裁きは行われたようなものなのだ。それはイエスが十字架につき死んだということだ。
私たちは本来は最後に燃えさかる炉に投げ込まれるべきものであるようだ。しかしその罪はイエスの十字架の死によって赦されているのだ。世の終わりの裁きの日には私たちの罪を罰することはもうない。すでにイエスがその罰を負ってくださったから、それ以上の罰をうけることはない。神はそのようにして私たちを愛してくださった。憐れんでくださった。
そうすると、畑に宝を見つけて持ち物を全部売り払って畑を買い取った人や、高価な真珠を見つけて全財産をなげうって買った商人とは、神のことなのかもしれない。そうすると宝や高価な真珠とは私たちのことになる。本当はそう言う解釈はおかしいのかもしれないが、しかし神が私たちを招いてくれているありさまはそのようなものだ。キリストの命を代償にして私たちを赦す、私たちを罪のないものとしてくださった。それは宝物を見つけたらなんとしても手に入れようとする姿そのもののようだ。神はそのようにして、つまり私たちを宝物として、何者にも代え難い宝物として見つめているということだろう。
価値
私たちはそれぞれそういう風にして、神が大きな代価を払って自分のものとしてくださった者たちなのだ。とてももったいないような話しだ。それほどのものが自分にあるとも思えない、また周りの人にもあるとも思えない、それが現実かもしれない。神が宝物と思えるような人なんてこの世に存在するのだろうか、なんて思う。それほど価値のある人はそうそういないような気がする。よっぽどいいことばかりしているような人なら、たとえばマザーテレサのよな人なら、あるいは神から宝物と思われるかもしれないけれども、そんな人はほとんどいないだろうと思う。
人の価値とはどこで決まるのだろうかということをよく思う。私たちは人の価値を周りの人と比べて計ることが多いのではないか。周りよりも勉強ができて、周りよりも学歴があって、周りよりも走るのが速くて、周りよりもお金持ちで、周りよりも収入が多くて、周りよりも友人が多くて、周りよりも美人の妻を持っていて、なんてのもあるだろうか。そんな風に周りと比べて自分がいいものを持っていると思えるときは価値があって、周りよりも劣っていると思えるときは価値がない、と思ってしまうことが多いような気がする。
けれども人間の価値とはそういうことで決まるのだろうか。その人の持っているもの、持ち物でその人の価値が決まるならば、すぐれた能力、多くの財産や地位や名誉を持っている人が一番価値のある人となる。でもそんなのはほんの一面の価値でしかないように思う。
本当は人の価値とはその人自身が持っているものではないのではないかと思う。ある施設の子どもに、お金の価値を教えるために500円と100円と50円と10円と1円を見せてどれが一番大事かということを何回となく説明したという話しを読んだことがある。先生は500円から順番に並べて、これが一番大事、と説明した。そしてその後で、一番大事なのはどれ?と聞くと、その弧は10円玉を指さしたそうだ。そこでまた繰り返し教えるのだが、一番大事なのはやっぱり10円玉だと答える。そこでどうしてこれが大事なのか、と聞くと、そのお金を電話にいれるとお父さんの声が聞こえるからだ、と答えたそうだ。この子にとっては、すぐにお父さんの声を聞くことができる10円玉が一番大事だったのだ。その子にとっては10円玉が一番価値があったのだ。
女性は花束をもらうことが嬉しいというひとが多いらしいが、僕は花束をもらってもあまりうれしくない。宝石もしかりだ。好きな人にとってはとても価値のあるものも、僕にとってはあまり価値がないというものもある。そんな風に実はものの価値とはそれ自身が持っているのではなくて、そのものと相手との関係の中にあるのだと思う。誰にとってなのか、ということで価値があったりなかったりする。そして人間の価値も、実はその人自身が持っているのではなくて、その人と他の者との関係によって価値が生まれてくるのだと思う。その人を大事に思うものがいる、そうするとそこに価値が生まれるのだ。なんでも自分で出来る人が価値があるとは限らない。一杯お金を稼ぐ人間が価値があるとも限らない。人の世話にならないといけないと言う人は何の価値もない、というわけではない。生まれたばかりの赤ん坊は自分では何も出来ない、世話にならないと生きられない。食べ物も自分で食べないし、乳は吸うけれども、自分でトイレに行くわけでもないし、何かがあると夜中だろうがなんだろうがお構いなしに泣いている。世話になるばかりでおまけに迷惑ばかりかけている。けれどもそんな赤ん坊に何の価値もない、と思う人はあまりいないだろう。それはその赤ん坊を大事に思う人がいるからだ。大事に思う人がいることで、その人との関係の中に価値が生まれてくるのだと思う。
そんな風に人も、自分に価値があるかどうかは、自分が何を持っているかということには関係ないことだと思う。自分が優れた能力を持っているかどうか、財産を持っているかどうか、そんなことは自分の価値とは関係のはないことだ。そうではなく、自分を大事に思う誰かがいるかどうかだ。
自分のことなんてだれも認めてくれない、誰も大事に思う人なんかいないとおもうかもしれない。あるいは誰も自分を認めなくても、誰も大事に思ってくれなくても、神は大事に思っているのだ。神はきっと、全財産をなげうってでも手に入れたいと思うような気持ちで私たちを見つめている。それほどの気持ちで大事に思っている。キリストの命と引き換えにしてまで私たちを赦してくださってのだ。それほどに愛してくれているのだ。そう思われているということは、神にとって私たちは宝物のようなものなのだろう。私たちは決して何の価値もない人間ではないということになる。それどころか何もにも替えられない大事な大事な一人一人なのだ。
教会はそういう風にして神に集められたものの集まりだ。神から見ると大事な一人一人なのだ。私たちはよく人と比較して、競争してしまう。そして周りの人のことが気に入らなくなり赦せなくなってしまう。自分がすぐれていると思える時は傲慢になり、劣っていると思うときは妬みを持ったりする。周りを見てはひがみっぽくなることも多い。でもそんな時は、自分の価値を見失ってしまっている時ではないかと思う。神が自分を大事に見つめていることを、なんとしても手に入れようとして招いてくださったことを忘れているときではないかと思う。
私たちはきっと神の宝物なのだ。自分ではそう思えなくてもきっとそうなのだ。大事な大事な一人一人なのだ。そんな神との関係を大事にしていこう。