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礼拝メッセージより
説教題:「仕えること」 2002年1月27日
聖書:エフェソの信徒への手紙 6章1-9節
子ども
手紙の書かれた当時は、父親が生きている限り子どもに対しては絶対的な権限があった。父親は子どもを奴隷として売ることもできたし、鎖につないで畑で働かせることもできた。父親は子どもに自分勝手な制裁を加えたり、好むがままに罰したり、罰として死刑にすることもできた。父親の権力は、父親が生きている限り子どもの全生活に及んだ。たとえ子どもが成人して、立派な社会人となっても、父親が生きている限りは父親の絶対的な権力の下にあった。もちろんすべての父親が横暴だったわけではないだろうが、息子を死刑にした父親がいたという記録も残っているそうだ。
また当時は捨て子の習慣があったそうだ。子どもが生まれるとその子は父親の足下におかれ、もし父親が屈んでその子を抱き上げるならば、父親はその子を承認し、その子を育てることを願っているということであった。もし父親が背を向けて立ち去るならば、父親は子どもの承認を拒み、その子は捨てられるということを意味した。望まれない子どもは広場に捨てられ、拾って育ててくれる人の所有物とされた。その人たちは、子どもを奴隷として売るために夜の間に子どもを拾い集めていたそうだ。
また古代では、病気がちだったり、体の不自由な子どもに対して、社会は冷たかった。こんな言葉が残っているそうだ。「私たちは凶暴な牡牛を殺し、狂犬を絞め殺す。病気の家畜が群を堕落させないように、病気の家畜にはナイフを突き刺す。生まれつき虚弱で、身体の不自由な子どもは溺死させる。」身体が弱かったり不自由であった子どもはほとんど生き残る希望がなかった。
そんな時代にこの手紙は、両親に従いなさい、と言う。そして、父と母を敬いなさい、そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる、という。これはモーセの十戒にある言葉だ。
しかし父親の権力が絶対であるような時代に、全く無力な子どもに対して、両親に従えとか父と母を敬え、とはどういうことなのだろうか。そんな社会の仕組みをそのまま踏襲しろ、ということなのだろうか。
しかしこの手紙は、その絶対的な権力を持っている父親に対しても語る。子どもを怒らせてはならない、と。えてして父親は子どもに対して怒りをぶちまけることがある。自分の子どもに対しては何をしてもいいと思う人もいるようだ。しかし父親からそのように育てられた子どもたちは一体どういう子どもになるのだろうか。親は躾なのだとか子どものためだとかいうことを言うのだろうが、感情的に怒鳴られたようなときには、子どもはそこで怒りや敵意というような感情を持つことがほとんどだろう。子どもに手を挙げるときに、純粋に躾だとか子どものためだとかいうことが本当に言えるのだろうか。言うとおりにしない、思うようにいかない子どもに腹を立てたりいらいらしたりというような気持ちは当然混じっているのだと思う。親の機嫌のいいときと悪いときで対処が違ってくるというのが現実だと思う。だからちょっとしたことで滅茶苦茶怒られたときには子どもは頭に来ていることだろう。それこそ親の権力の下にいる間は子どもは下手に逆らうことも出来ないが、その分不条理なことをされたときには怒りを貯めることになるだろうと思う。
誰もがそんな風に子どもを怒らせる要素をいっぱい持っているのだと思う。虐待したと言うニュースに出てくる人たちだけが特別に持っているのではなくて、誰もが、私たちもきっとおなじような面を持っているのだと思う。だからこそ、この手紙は忠告するのだ。子どもを虐待する親に対して言うだけではなく、子どもを持つ凡ての親に言うのだ、子どもを怒らせてはなりません、と。そして、主がしつけ諭されるように育てなさい、と。
主の躾、主の諭しとはどんなものだろうか。イエスはどんな風に弟子たちや周りの者たちに接していたのだろうか。
イエスは間違いだらけの、欠点だらけの者たちと行動を共にしていた。しかも一番側近の弟子たちは、みんなイエスを見捨ててしまった、そんな人たちだ。自分たちの中で誰が一番偉いかというようなことで争うような人たちだった。その弟子たちに対して、イエスはいつもいつも怒鳴っていたわけではなかった。間違ったり失敗したりするたびにきつく叱っていたわけでもなかった。罪をひとつひとつ数えて糾弾していたわけでもなかった。イエスは、その間違いや失敗や罪を自分が引き受けて、自分が背負っていった。罪を持っている者を、間違いや失敗をする者を、人を差別しさげすむような心を持っているその者を、そのままに全部引き受けて、受け止めていた。全てをそのままに包み込んでいた。徹底的に受け止めていた。
ベンゲルという人は、若者の致命的な病弊は「落胆」であり、ひっきりなしの批判と叱責と厳格すぎる訓練とから生ずる「失望」である、と言っているそうだ。落胆し失望すること、それは致命的な大変な弊害であるというのだ。自分で自分に落胆し自信をなくすということは、それはその人が生きる上での大きな重荷、弊害となるだろう。
昔読んだ本の中に、とにかく子どもは厳しくしつけなければならない、厳しくした方がいい人間になるんだというような考えを持っている父親の話があった。子どもは鞭で育てるものだと本気で思いこんでいるような父親もいた。その本のタイトルは「連続殺人者」とか「大量殺人者」というようなもので、その殺人者となった人の父親のほとんどは、子どもには対してはとにかく厳しくしないといけないと考えているようなそうだったと記憶している。
叱ってばかりで誉めることを知らないというのが今の社会の流れであり、今の親の多くもそうであるようだ。誉められ認められるということがないと、こどもは自分に自信が持てないで、将来に希望を持てず、いつも不安で、小さなことが心配の種になり、いらいらするようになるだろう。そしてその子が親となると、また自分にされたように子どもに接するそうだ。
私たちはもっともっと子どもを誉めないといけないのだろう。また子どもだけではなく、周りの人をもっと誉めないといけないのだろうと思う。人は自分を認められ誉められることで成長していくのだと思う。誉められることで安心し、自信が持てるようになり、持っている力を発揮できるようになるのだと思う。自信がないと力も出せない。
ベンジャミン・ウェストという画家がいるそうだが、その人がどうして画家になったかということを自分で語っている。ある日母親が彼の妹のサリーを彼に託して留守番をさせたことがあったそうだ。母の留守中に、彼は何色かのインクの瓶を見つけて、サリーの肖像画を描き始めた。そうこうしているうちに、そこら中をインクのしみで滅茶苦茶にしてしまった。そこに母親が戻ってきた。母親は混乱した状態を見たけれども何も言わなかった。そして一枚の紙を取り上げてそこに書かれた絵を見た。「まあ、サリーね」と言って、ベンジャミンに口づけした。ベンジャミン・ウェストは、その母親の口づけが私を画家にした、といつも語っていたそうだ。
人を成長させるのは叱責ではなくて励ましのようだ。何かにつけて、そんなことでは駄目だから直しなさい、何をしているのかもっとしっかりしなさいと言われ続けたとしたらどうなるだろうか。何をやっても認めてもくれず誉められもしなければ、だんだんとやる気もなくなるだろう。今度は何を言われるだろうかと思うことでいやになりやる気も失せてくるだろう。反対に、あなたはすばらしい、良くやっている、と言われたならば、嬉しくなるし、またそう言われたくてやる気も出てくる。豚もおだてりゃ木に登るのだ。
子どもを怒らせるなと手紙は言う。それは子どもを認め、自信を持たせるということに通じると思う。そしてそれは子どもにとっては何よりの財産となるだろう。自分に自信を持てないことほどつらいことはない。自分を認められない、自分を好きになれない、こんな苦しいことはない。そして現実にはそんな苦しみを背負って生きている人たちが大勢いるのだ。
教会に来る人たちを受け止め受け入れること、それが教会の務めでもあるのだと思う。その人たちを正すことが大事なことではなく愛すること、それが私たちが神さまから託されている務めなのではないか。教会に来る人たちを罪のない聖人にすることが私たちの務めではない。あんたたちはここがおかしい、間違いを責めること、罪を責めること、それは教会の務めではない。いろんなことに苦しんでいるその嘆きを聞くこと、その苦しみを少しでも共感すること、いたわり慰めること、そして愛することそれが私たちの務めなのだと思う。
手紙は、主がしつけ諭されるように育てなさい、という。イエスはまさに励まし認めてきたのではないか。私たちは、聖書を読むときには、イエスはそうした、と読むのに、そして自分に対してはそのように凡てをありのままに受け止めて欲しい自分の立場や苦しさを理解して欲しいと望むのに、周りの人に対しては、イエスの仕方と全然違う仕方で、社会はそんなに甘くないとか、こうすべきです、なんていうふうに接しているなんてことが多いのかもしれない。
奴隷
後半には奴隷についての話が出てくる。奴隷に対しては、キリストに従うように主人に従いなさいといい、主人に対しては脅すのをやめなさいという。主人も奴隷も、同じ神に民なのだからということのようだ。
当時は奴隷は人とは認められていなかったようだ。農家にとって奴隷は、言葉を話す農耕用具というような見方をしていたらしい。そして役に立たなくなると捨ててしまっていた。要するに主人にとって奴隷は道具でしかなかったらいし。結局主人の気まぐれで生きるも死ぬもどうにでもなったようだ。
そんな中で奴隷たちは主人に従っていた。ほとんどの人はいやいや従っていたことだろう。しかし仕方なく主人に従うのではなく、主に仕えるように、キリストの奴隷としてキリストに仕えるように主人に仕えなさいという。奴隷であるというとても逆らえないような世の流れに流されているような人に対して、その流れに流されるのではなく、流れよりも速く進んでいくようにと言われているようだ。後から押されていやいや動かされるのではなく、流れをかき分けて進んでいけと言っているようだ。そう思えるなら、ただやらされていた仕事が、自分でする仕事に変わっていくかもしれないと思う。そうすると毎日が変わってくるかもしれない。
手紙は、奴隷だけではなく主人に対しても忠告する。脅かすのはやめなさいと。同じキリストの奴隷として接するようにと。キリストから見れば同じ種類の人間であるのだ、そのことをわきまえておくようにと言うのだ。たまたま今の社会の中では主人と奴隷というような立場にあるが、神から見れば同じ人間なのだということのようだ。当時の、奴隷は道具と同じというような考え方すればずいぶんと革新的な考えだ。
主に結ばれている者として
子どもにも親にも、奴隷にも主人にも、お互いに主に結ばれている者として、キリストの奴隷として接するようにと勧めている。誰に対しても、ただ二人の関係ではなく、自分と相手という関係だけではなく、お互いにキリストにつながる者であるという自分と相手とキリストという三角関係があるということを思い起こさせているようだ。つまり相手は、自分から見て親子であったり主従関係であったりという関係があるということと同時に、キリストを通して見たときには共に神の子同士、神に赦されなければならない者同士という関係がある、そのことをいつも考えていなさいということだろう。そしてキリストを通して、キリストがその人に接したように、あなたたちをお互いに接しなさい、愛しなさい、いたわりなさい、慰め励ましなさい、そう言われているようだ。ただ社会的な常識や制度に縛られるのではなく、キリストに結ばれている者として生きなさい。キリストに愛されている者として生きなさい、そう言われている。教会はそう言う面で他の社会とは違う所だと思う。教会はきよい正しく立派な人が来るところだから他の所と違うというわけではない。ただ日曜日に集まり、聖書を開いているから教会なのではない。間違いも罪も山ほどありながら、キリストの愛といたわりがあるところとして他とは違う場所なのだと思う。それでこそ教会なのだと思う。