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礼拝メッセージより
説教題:「互いに仕え合う」 2002年1月20日
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章22-33節
結婚式
ここは結婚式によく読まれるところ。夫婦に対する勧めが書かれているところである。妻に対する勧めの方が先にある。なのにそれを逆にして夫に対する方を先に読むことがけっこうあるらしい。どうしてそんなことをするのか、と神学校の先生が怒って(?)いた。
妻たちよ
「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」。21節の「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」ということからの言葉。ギリシャ語には22節には「仕えなさい」という言葉はない。22節に、互いに仕え合いなさい、と言われているということは、仕えるのが妻だけに言われているということではない。
しかし妻に対しては、教会にとってキリストが頭であり救い主であるように、夫が妻の頭なのだから、教会がキリストに仕えるように夫に仕えなさいという。キリストに仕えることと、夫に仕えることは別物ではなく、主に仕えることは夫に仕えることであり、夫に仕えることが主に仕えることの具体的な行動となるということだろう。
かしら
しかし「5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」と書かれていることは、いかにも男が女の上にいるかのように読める。聖書にこう書いているじゃないか、と言って夫は妻に威張ることができるのだろうか。しかし頭と体とは切っても切れない関係にある。頭と体が別れてしまっては生きてはいけない。そういうことを言うための比喩であって、上下関係や主従関係としてそれを言っているのではないと思う。どっちが上なのかというような見方で考えてしまうことが多いのが私たちの現実であるが。
社会
しかし実際当時の社会でも女性は下に見られていた。女性は人数の中にも入っていなかったそうだ。そして妻はほとんど夫の持ち物のように考えられていたようだ。申命記24:1「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とあるが、その恥ずべきことに関して、ユダヤ教の厳格な教師たちはそれは姦淫だけだと主張していたそうだが、中には、夫の食べ物に塩を入れすぎて食をだめにしてしまったり、頭にかぶり物をしないでおおっぴらに歩き回ったり、通りで男の人と話したり、けんか好きな女であったり、うるさくて口論好きであったりしたならば、夫は妻を離縁してもよいという意味である、と主張する教師もいた人もいたそうだ。結局は何でも離縁する理由にできたみたいで、早い話がもっと魅力的な女性を見つけたら離縁してもよい、というような考えとなっていたようだ。妻から離縁する権利は、夫が反逆者である場合とかいうような特別な理由がない限りは不可能に近かったのに対して、夫からはどんなことでも離縁の理由となったようだ。そして離縁する方法も実に簡単であった。モーセの律法には、離婚を願う夫は妻に離縁状を手渡さなければならないと書かれている。その離縁状の中身は「これは、わたしから出た離縁状であり、放逐状であり、解放の証文である。あなたは好む人誰と結婚してもよい。」というものだったそうだ。離縁状と妻の持参金を、二人の証人の前で妻に渡しさえすればそれだけで離婚は成立したそうだ。だから結婚というものは当時は危機に瀕していたようだ。
夫たちよ
そんな社会にあって聖書は夫に対して、当時の常識とはまるで違った勧めをする。夫に対する勧めは、妻に対するものよりも格段に長い。それは当時の男性優位の社会に対する批判が含まれているのだと思う。
そしてそれは、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛するということだ。キリストが自分を、自分の命を与えたように妻を愛しなさいという。奪い合うことが私たちの習性である。相手にいろんなものを要求することが多い。相手からあれをして欲しいこれをして欲しいと思う。大事にして欲しい、いたわって欲しい、愛して欲しい、と願う。しかしここでは与えなさいというのだ。キリストが教会のために自分をお与えになったように妻を愛しなさいという。自分を与えなさいというのだ。奪うのではなく与えなさいというのだ。
キリストは自らの命を投げ出して私たちを救われた。自分が罰を受けることで私たちは赦された。そういう風にして私たちを聖なる、汚れのない、栄光に輝くものとしてくださったのだ。夫はそのようにして妻を愛し、妻を聖なる者として立たせなさいといわれる。
それはまた自分の体のように妻を愛するということでもある。夫は妻の頭だということばがあるが、体のない頭も、頭のない体もない。それでは生きていけない。そんな分けられない、分ければ死んでしまうような関係、それが夫婦としての関係なのだということだろう。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです、と言われる。誰もが自分を愛している。自分を大事にしたいと思っている。自分を大事にして欲しいと思っている。夫も愛されたい大事にされたいと思っている。その自分を愛することは妻を愛することだと言うのだ。妻を愛することが自分を愛することなのだと言うのだ。相手を大事にしないことは結局は自分を大事にしないということになるのだろう。
キリストの体
私たちはキリストの体の一部だという。私たちはお互いキリストの体の一部分同士なのだ。一部分が痛ければ体全体に影響する。体のどこかが痛ければ生活するのに支障が出る。私たちはそれぞれキリストにつながっている体の一部分同士なのだ。だからこそ互いにいたわり合わなければならないということだ。
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」夫と妻は一体となる、もうほとんど一人となる。分けられない者となる、結婚とはそういうものである、と聖書は主張している。
夫はこうしなさい、妻はこうしなさい、と言われているが、多分それは夫と妻を入れ替えても通じる話だと思う。お互いにそうしなさいと言われていることだろう。
そしてここでは夫婦に関して言われていることではあるが、夫と妻だけではなく、キリストにつながっている者凡てがそのように愛しあい、いたわり合わねばならないということだろう。そしてそれが自分を大事にし自分を愛することでもあるのだろう。
まわりからいろんなものを奪うことで、いろんなものを自分がとりこむことで私たちは満たされるとか、幸福になれるとか思い、そうすることが自分を大事にし自分を愛することであるかのように思うことが多い。でも本当は自分を与え、相手を愛すること、相手を大事にすることが自分をも愛し自分を大事にすることになるということだろう。
私たちはキリストにつながっている者同士なのだ。体のどこかが傷つき弱っているならそれはそのからだ全体が傷つき弱っていることでもある。体の凡てのことを配慮しいたわること、それは自身自身が元気になることでもある。
そんな関係を持つように、夫婦の関係もそうであるが、それ意外の教会での人間関係もそのような関係をもつようにと勧められているのだろう。