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礼拝メッセージより
説教題:「神の子らしく」 2002年1月13日
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章6-21節
父親
父親になるというのはとても不思議なものだ。子どもが生まれると父親になる。しかし父親は生まれる前と生まれた後には自分自身には変化はない。母親は出産するという実体験があって産んだ後は大きな変化もあるが、父親にはそれがまるでない。実感もなにもないままに父親になる。自分自身には何の変化もないのにある時突然父親になるのだ。ただ子どもがいるということで父親になる。つまり父親になるということは自分が父親というものに変化してなるものではない。父親という資格を取ることで父親になれるというようなものでもない。ただ子どもがいるかどうか、それが父親であるかどうかの分かれ目なのだ。
そして実際に父親らしくなっていくのはそれから後のことだ。子どものことなど構わないで放っていては名目は父親ではあっても中身のない父親ということになる。自分は父親なんだという自覚を持って父親としてやっていこうという気持ちを持たなければ形だけの父親になってしまう。
暗闇
あなたがたは以前は暗闇であった、という。以前は暗闇の中にいた、というのではない。暗い環境の中にいたというのではなく、暗闇であった、暗闇そのものであったというのだ。
光
しかし今は主に結ばれて光となっている、という。ここでも光に照らされていると言うのではなく光となっているという。光そのものとなっているというのだ。主に結ばれて光そのものとなっているという。主に結ばれるということは、イエス・キリストに結ばれるということは、私たちが光とされるということなのだ。自分自身信じられないようなことかもしれないが、光とされている、というのだ。
まるで父親になったときに似ていると思う。主に結ばれたとしても何も変わらないではないかと思う。どこが光となっているのだろうかと思う。しかし光となっているかどうかということは、自分がどんなに変わったかということよりも、主に結ばれているかどうかということなのだ。自分に何の変化がなくても主に結ばれているということは光とされているということなのだ。
あなたがたは主にむすばれて、もうすでに光とされているというのだ。もう光となっているというのだ。だから光の子として歩みなさいというのだ。
私たちは自分のことを省みるときに、本当に光とされているのだろうか、本当はまだ光とはなっていないのではないか、もっともっと自分を正していかないと、もっともっと努力していかないと光とはなれないのではないかと思うことが多いように思う。でもなかなか努力もできないで、結局は私は光にはなれない、私は駄目な人間なのだ、なんて思うことが多いのではないか。そして自分のことを嘆くばかりで自分に出来ることも何もしないままにいるなんてことになっているのではないか。
しかし聖書は、主に結ばれているあなたたちは光となっているという。もう光となっている、だから光の子として歩みなさいという。
父親となった者が、私は父親となっているのだろうか、父親としてふさわしいのだろうか、駄目かもしれない、きっと駄目だ、なんてことばかり思っていては子どもは大迷惑だ。子どもから言えば、私がいるからあんたは父親なのだ、ということだ。何がどうあろうと私がいるからにはあなたは父親なのだということだろう。
イエス・キリストも同じように、私がいるからあなたたちは光となっているのだ、あなた達がどうであろうと、私に結ばれているからにはあなたたちは光となっているのだ、と言いたいのではないか。
もう光とされているのだから、光の子として、光の子らしく生きなさい、と言うのだ。光の子らしく生きるということは何が主に喜ばれるかを吟味しながら生きるということなのだ。
これは面白い生き方だ。よく私たちはばちが当たるという。何か悪いことをしたらその罰を与えられるというような考え方をする。そして何となく教会に来るようになっても悪いことをしないことが目標になっていたりすることが多い。クリスチャンらしい生き方はどういうものか。よく聞くのは、こういうことはしない、こういうことはしてはいけない、というようなない、ないという言葉だ。そうすると何もしないでじっとしていることがいいクリスチャンになってしまいそうだ。でもここでは光からあらゆる善意と正義と真実が生じると言われている。光から生じるものがあるのだ。しないしないでは何も生まれない。何かをすることから何かが生まれる。クリスチャンはしないことよりもすることを考えた方がいいと思う。
子どもに対して、どんな人間になって欲しいかと聞くと、大概の親は人に迷惑をかけない人間になって欲しいと答えるみたいだ。人からされていやなことを人にもするな、ということをよく聞いてきた。けれどもイエスさまは、自分が人からしてほしいと思うことを人にもしなさい、と言われる。イエスさまはこれをしてはいけない、ということよりもこれをしなさいと言われているのだ。迷惑をかけるなということよりも、相手が喜ぶことをしなさい、と言うのだ。イエスさまの言う一番の掟は人に迷惑をかけるな、ではなく人を愛しなさい、ということなのだ。実際人に迷惑をかけずに生きることはきっとできない。みんないろんな人に迷惑をかけながら、世話になりながら生きている。自分は迷惑をかけてないなんて思っている人間は相当傲慢な人間ではないかと思う。自分も人に迷惑をかけている、だから自分も人から迷惑をかけられることを受け入れる、本当はそんな生き方を目指すべきではないのかと思う。何かをしないことではなく、何かをすることを目指していく、それがクリスチャンらしい生き方なのだと思う。
そこで何が主に喜ばれるかを吟味しなさい、という。私たちはいつも神さまに見張られていて、少しでも悪いことをすると罰を与える、そんな風に思うときもある。そうするとこれは悪いことかこれは怒られることかという風に駄目なことか駄目でないことかということを考えるようになる。そういう生き方と、主に喜ばれるのはどんなことなのかということを考えて生きる生き方とはまるで違う生き方になると思う。相手を喜ばせようと思っている時って言うのはとても楽しい。これをすれば喜ぶだろう、なんて思いつつ生きるのはとてもうれしいことだ。恋人のことをいつも考えて生きているようなものだ。そしてそんな風に何が主に喜ばれるかを吟味して生きなさい、と言われている。そしてそれこそが光の子としての生き方なのだと思う。
細かく気を配って
また愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさいと言われる。神の声を聞いて神の御心を知っているあなたたちはもう愚かな者ではない、賢い者となっている、だから賢い者として細かく気を配って歩みなさい、と言われる。逆に言えばここで言う賢い者とはそうやって細かく気を配る者のことだ。自分のことだけではなく自分の周りのことにも目を向け配慮する者のことだ。
私たちは自分中心で自分のことしか考えられない時がある。自分がどうであるか、自分が嬉しいか、自分が満足か、そんな風な見方しかしないときがある。けれども自分が自分が、と自分のことばかりに注目していくと泥沼にはまり込んでいくことが多いように思う。自分の要求ばかりをつきつけて、結局は周りに対して不満ばかりということになりかねない。自分が何かを手に入れることで自分を満足させようとすると失敗することが多い。
礼拝に来たのに子どもの世話をさせられて、あるいは奉仕をして何も聞けなかったと思うことがある。けれどもそのことで他の人がゆっくり話しを聞けたならばそれはすごいことではないかと思う。イエスさまはそういうことをしなさいと言われているのではないか、それこそイエスさまの言われていることを実行しているのではないかと思う。細かく気を配ること、誰かのために自分をささげること、誰かを喜ぶことを自分に何かが出来たことを喜ぶこと、それは光の子らしい生き方なのだと思う。
讃美
また酒に酔いしれるのではなく霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かってほめ歌いなさいと言われる。私たちの本当の喜びは神に繋がることだ。いくら酒に酔ってもその喜びは得られない。酒によって心の喜びを得ようとしてもそれは無理な話だ。神以外のもので喜びを得ようとしてもきっと得られない。やけ酒飲んでも、やけ食いしても、いっぱい買い物しても、私たちの心の奥にある空しさは埋められない、その空しさは神によってしかイエス・キリストによってしか埋められないということだ。だからこそしっかりと神につながって、イエス・キリストに結ばれて生きなさい、あらゆることをイエス・キリストの名により父である神に感謝しなさい、と言われるのだ。
神は私たちを光の子としてくれている。だから私たちも光の子らしく生きていこう。神の御心を求めつつ、神に喜ばれることをしていこう。互いに仕え合うことで神を喜ばそう。私たちはお互いに仕え合い愛し合う者としてこの教会に集められている。そしてこれからこの教会にやってくる人たちも同じだろうと思う。求道者という言葉がある。確かに道を求めている人たちだろう。しかしそれはその人の姿勢であって、私たちもみんな求道者であることに変わりはない。教会からすれば、新しく来る人たちは、道を求めて勝手にやってきている人ではなく、教会が愛し仕え伝道していく人たちなのだと思う。だから新しく来る人たちは、教会が伝道する対象者、愛する対象者、仕える対象者なのだ。そういう風に仕えること、それをきっと神は喜ばれる。そしてそうすることは教会にとっても、私たち自身にとっても喜びなのだ。その喜びを生み出しながら生きていこう。