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礼拝メッセージより
説教題:「愛によって」 2002年1月6日
聖書:エフェソの信徒への手紙 5章1-5節
ならう
達人になるためには、最初は上手な人の真似をする。上手い人のやり方を習って上達していく。人生でもあんな人のようになりたい、と思うときもある
聖書はなんと神にならうことを勧められている。私にはできないと言ってはいけない。できるかできないかを自分で決めてはいけない。やりもしないで勝手に判断してはいけない。神になれといわれているわけではないのだ。神になることはもちろんできない。しかし神にならうことであればできないことではない。
では神に何をならうのか。神のどんなところをならうのか。
そのひとつが、赦すということ。それは4章32節に書かれているとおりだ。そしてもうひとつが、愛のうちを歩く、ということだ。コリントの信徒への手紙一12章31節以下には「31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」とある。そこでは、愛が道であると言われている。それは最もすぐれた道であると言われている。キリストが私たちを愛してくださっているからだ。キリストが愛してくれている、だから私たちも愛のうちを歩むように、ということらしい。
愛せよと神に命令されているから愛さねばならない、だから愛するというのではなく、愛さないと神から愛されなくなる、神から見捨てられるから愛するのではなく、神が私たちを愛してくれているから愛するようにというのだ。私たちが愛そうと愛さなかろうと神は私たちを愛しているのだ。どんなときにも徹底的に愛してくれている、それが神の愛なのだ。ちょっと愛して、それに応えてくれるならもう少し愛して、そして向こうもこっちを振り向いてくれたらもっと愛して、といのが人の愛だろう。しかし神の愛は相手が振り向かなくても知らん顔していても愛する。そんな愛なのだ。そんな風に愛されているからあなたも愛しなさいと言われているのだ。愛されている者としてそれにふさわしく生きなさいと言うのだ。
みだらなこと
その具体的な事柄が、みだならことや汚れたこと、どん欲なことを口にするなというようなことだ。
テサロニケの信徒への手紙一 4:3-5「3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」妻と生活するように、というのは口語訳では、自分の体を清く尊く保ち、となっている。とにかく、相手も自分も体を大事にするようにということ。
もちろん人間には欲望がある。欲望のかたまりのような面があると思う。しかしその欲望の赴くままに生きることをしてはならないという。それは相手の体をを大事にしないということであり、それは自分の体も大事にしないということにつながるということのようだ。相手も自分も大事にするということを抜きにして性的な関係を持つことは相手も自分も傷つけるということになるのだろう。人として生きるということは、お互いの人格を尊重するということであって、性的なことがらもそういう関係の中で考えないといけないということなのだろう。それを抜きにして自分の欲望のままにふるまい、互いを傷つけてはならない、ということなのだろう。
感謝
そうではなく、感謝を表しなさい、と言うのだ。
感謝は神の恵みを数えること。神の恵みを見いだすことだ。
ある人は「キリスト者の自己訓練は感謝の訓練と言えるのではないか」と言っている。神の恵みを見いだしそれを数える訓練。
感謝できることがあれば感謝する、でも今は感謝できることがないから感謝できない、と思うことが多い。確かになかなか願ったことが実現しない。いろんなことを神に願い祈るがほとんど叶わないということが多いのが現実かもしれない。願うようになってない現実の方に目が向く。そこで不満が出てくる。気に入らないことを数えればきりがない。どんな人間でも悪いところを数えればきりがないだろう。でも逆にいいところを数えても案外きりはないかもしれない。
自分の気に入らないことばかり数えて不満ばかりを口にして生きるのも一つの生き方だ。反対に恵みを数えて感謝して生きるのも一つの生き方だ。不満で生きるのか、感謝で生きるのか、それはその人の境遇ということも大いに関係するだろう。恵まれたとか恵まれないという言葉を実際よく使うように、その人の環境によって恵みの数は随分違うような気もする。恵まれた人生ならば一杯感謝も出来るという気にもなってくる。もっと恵まれていれば感謝できるのに、なんてことも思う。
でも感謝ってのはどこがどうなったら感謝で、どこからは感謝でないという基準なんてもちろんない。同じことでも感謝する人もいるし感謝しない人もいる。感謝できるかどうかということは感謝する気持ちがあるかどうかということにかなり関わってくるように思う。不満の人生を送るか、感謝の人生を送るか、それは必ずしも周りの境遇によって決まるとは限らず、自分がどっちを選択するかということにかかってくるのかもしれないと思う。ある人が言うように、感謝は神の恵みを見いだしそれを数える訓練なのかもしれないと思う。自然に感謝するようになるというよりも、訓練することかもしれないのだ。
だいたい人は最初は感謝していてもそれが続けばすぐに当たり前になってしまって感謝もなくなる。感謝しているときはそのように生きるし、感謝がなくなればやっぱりそれなりの生き方をする。
このまえ親分はイエス様という映画があった。やくざがクリスチャンになったという話しだったが、以前ある牧師が今の教会員はやくざよりも駄目だと言っていた。やくざは一度何かしてもらうとそれを義理に思う、でも今の教会員はいつまでたってもやってくれというばかりだ、なんてことを言っていた。
それがどれほど当たっているか知らないが、最初は感謝していてもしだいに感謝がなくなることも多い。
神の恵みを数えることが少ないのが私たちの実状かもしれない。でもそれは私たちが感謝しない方を今選択しているためではないかと思う。
不満を口にするよりも感謝するほうがいいと思うのだが。
ならう
あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい、と言われる。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香のよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい、と言われる。
キリストが自分をささげたように、愛によって歩みなさい、と言うのだ。キリストが自分をささげたように、それに倣って愛によって歩みなさいという。自分が何を得られるか、何を与えられるか、何をして貰えるかということを考えることの多い私たちだ。だから余計に不満が出てくるのかもしれないと思う。キリストに倣って、自分をささげるように、と聖書は告げる。愛とは与えっぱなしということも聞く。愛するとはただ与えることなのだそうだ。見返りを期待するのではなくただ与えることが愛なのだと聞く。でもそれは愛されているから出来ることだろう。神に愛されていることを知ることで、そして神の恵みを数えて感謝することで、初めて私たちも与えることができる、自分をささげることが出来る、愛することができるのだろう。