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礼拝メッセージより
説教題:「決して」 2001年9月30日 聖書:ヘブライ人への手紙 13章1-17節
愛し合う
クリスチャンてのはどんな人なのか。清い人間で、悪いことをしない人なのだろうか。あるいは戒律を守る人のことなのだろうか。一般的にはそんなイメージがあるようだ。
一般だけではなく、教会の中にも似たようなクリスチャンのイメージがある。クリスチャンは礼拝を休んではいけなくて、献金しなくてはいけなくて、聖書を読まなくてはいけなくて、お祈りをしなくてはいけなくて、あるいは酒やたばこを飲んでもいけなくて、パチンコしたり賭け事をすることもいけない、なんてことを言う人もいるらしい。なんだかクリスチャンになるということは社会一般に言われているような品行方正な人間になることであり、誰からも悪口を言われないような人間になること、そんなイメージがあるような気がする。今はそうできてなくても少なくともそれがクリスチャンの目標であるかのようなイメージがあるのではないか。
ヘブライ人の手紙の著者は、兄弟としていつも愛し合いなさい、という。教会の人に向かっての一番の命令は愛し合いなさいということなのだ。そしてその具体的なことがらとして、旅人をもてなす、牢に捕らわれている人たちを思いやる、虐待されている人たちを思いやるようにと言う。
隣人を愛することが大事であるということはイエスも言われていたことだ。神を愛し隣人を愛することが一番大事な掟であると言われていた。
私たちはそんなことよりも、先ずは自分がどれほど立派になれるかということを気にしているのではないかと思う。社会的にも自分がいい成績を取り、いい学校に入り、いい会社に就職し、多くの財産を持つことを目指す。周りの者に負けない学歴と財産とあるいは地位や名誉を持つこと、それを第一に求めるようなところがある。
教会でも、自分がどれほどの信仰を持っているか、どれほど聖書のことを知っているか、覚えているか、あるいはまた教会について神について聖書についての正しい知識をどれほど持っているか、自分がどれほど正しい深い信仰を持っているか、そんなことを求めている、目指しているようなところがある。自分がいかに正しくできているか、間違っていないか、そんなことを気にしている。だからこんな自分でいいのだろうか、こんな何も知らない自分でいいのだろうか、なんて思ってしまって、これでは駄目だと思ってしまうようなところがあるのではないか。あるいはまた自分がいかに品行方正になっているかどうかということを心配し、そうなっていない自分を駄目なクリスチャンだ、クリスチャンだなんて誰にも言えない、というような面があるのではないか。周りの人と自分を比べて、自分が勝っていれば相手を責め、自分が負けていれば相手をねたんだりする。
社会でも教会でも、結局は自分がどれほどのものを持っているかどうか、そのことばかり気にしている。自分がどうであるかということばかり気にしている。自分のことだけを考えているような面がある。
ところが聖書は自分がどうであるか、自分がどれほど信仰深いか、自分がどれほど立派な信仰を持っているかどうか、なんてことよりも、まずは愛し合いなさいという。そして旅人や苦しみに遭っている人たちのことを思いやりなさいというのだ。
教会
教会とはどんなところなのか。聖書によれば教会はまずは愛し合うところ。愛し合う者がいるところ。
教会の目的は愛し合うこと、いたわりあうこと。それが一番大事なことなのだろう。
どんなに大きな立派な会堂があったとしても、どんなに大勢の人が集まっていたとしても、どんなにお金を持っていたとしても、どれほど多くの集会を持っていたとしても、そこに愛がなければ、愛し合う人がいなければそれは何にもならない。そこは教会ではない。
教会に来る人たちは、私たちが神について聖書について教えてやらねばならない人というよりも−自分が教えてあげようと思う人がいればそれはそれでうれしいことだけれども−先ずは何よりも私たちが愛する人たちなのだと思う。教えてやる対象というよりも、愛する対象なのだと思う。
関係
そういう風に自分のこと、自分がどうであるかということよりも、むしろ隣人との関係がどうであるか、それこそが大事なことなのだと思う。自分一人がどれほど立派になったと思っていても、自分一人がいろんな知識をいっぱい持っていたとしても、自分一人でそれを自慢しているだけでは何の意味もない。聖書は、正しくなれとかきよくなれとかいうことよりも、愛せというのだ。
もし教会に来るには正しくきよくなければならないとすれば私たちは本当はみんな失格だろう。私はまだましな方だと思うかもしれないが、大体そんな人ほど間違っている。私たちはみんな失格者なのだ。偉そうに堂々と神に向かって何かを言えるような立場にはいない。誰かに向かって、俺の方が正しい、お前はおかしいなんて偉そうに言える人は誰もいない。
私たちはただ神が憐れんでくれたから、罪を赦してくれたから、そんな風に愛してくれているから、だから神の前に集まっているのだ。自分が合格したからではない。不合格なのに許されているだけなのだ。なのに私たちはそんなこともすっかり忘れて人のことをとやかく言うことがなんと多いことだろうか。人の間違いを責め合ったとしたもそれはきりがないだろう。でも教会でも結構それをしてしまう。
間違いを持った同士が、罪を持った同士が集められている、神の呼び集められている、それが教会だ。私たちは神から罪を犯してはならない、今度は赦さないといわれて言る訳ではない。今度は絶対に間違うな承知しないぞ、と言われている訳ではない。あるいはそんな駄目な人がいないかどうか見張っているようにと神から頼まれている訳でもない。
神からそうやって愛され赦されていることを私たちはもっともっと真剣に聞いていかねばならないのだろう。神に愛され赦されている、だからこそ愛しなさい、赦しなさいと言われているのだ。なのに人の間違いやだらしなさを責めたりたしなめたりすることが多いのはどうしてだろうか。人を責め裁くことが多いのはどうしてだろうか。
人を責めるだけではなく、自分も責めてしまうことがある。こんなことではだめだ、こんなだらしないことではだめだ、なんて思ってしまい、またそんな自分のありのままの姿を誰にも知られたくないと思う。そうすると教会に来てもついつい立派なクリスチャン面をすることになる。実体は違っているのに、教会に来ているときは立派なことをしゃべって、教会員とはこうすべきです、なんてことをいうようになる。そして教会とは、そんないわゆる立派なクリスチャンが集まってくるところと思ってしまう。だから、立派でないようなことを言う人に対して、そんなことでどうするとか、そんなことを言うもんではない、なんてことを言ってしまう。人の間違いを見つけては一所懸命に指摘するようになってしまう。
そうすると教会は安らぐ所ではなくて疲れるところになってしまう。自分も疲れ、周りの者も疲れさせてしまう。
教会ってそんなところなのだろうか。疲れた者が休めるところだったはずではないのか。私たちは、あれもこれもしなければいけない、という思いに捕らわれすぎているのかもしれないと思う。何もかも立派にやらないといけないという気持ちが強すぎるのではないか。だからそうなっていない実体を嘆いてしまっているのではないか。お金がないとか人が少ないとかいうことにばかり気が向いていて、神を見ることがなくなっているのかもしれないと思う。「私は決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われているのだ。教会とはその神をしっかりと見つめていく、その神に聞いていく、そして愛し合う、それで十分じゃないかと思う。
お金がないから何もできない、人が少ないから大したこともできないという思いが強い。でも一番大事な愛することはお金がなくても一人ででもすぐにできることだ。
教会の目的
『一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としての纏まりが良いわけで、団体を構成する時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和していく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。』(「神の風景」藤木正三)
自分のことばかり主張していては調和することはできない。自分の思う正しさを主張するばかりでは調和することはできない。相手が見えてなければ、相手をいたわり愛する気持ちがなければ調和できない。
何かをすることではなく、愛すること、いたわること、そして調和すること、それこそが教会の目的なのだと思う。そんな教会にはいろんな人が集まってくるだろう。愛することは教会の基本なのだろう。