前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「平和に満ちた実」 2001年9月23日 聖書:ヘブライ人への手紙 12章1-11節
訓練
時々敬虔なクリスチャンが、いろんな苦しい目にあって苦労している人に向かって、それは試練なのだ、それは訓練なのだ、なんてことを言うらしい。こんなに苦しいのはどうしてなのか、こんなに大変なことばかり起こるのはなぜなのか、神はどうして私をこんな目に遭われるのか、なんてことを聞くと、それは試練です、それはやがて喜びになるとか、それは神さまの訓練なのだから文句を言うもんではないなんてことを言うことがあるようだ。
確かにそうなのだろう。それはその通りなのだろう。きっと正しい言葉だろうと思う。でもそれでその人は安心できるか、それでその人はその試練を堪え忍ぶことが出来るのだろうか。
訓練だとか試練だとか、そんな言葉を誰が言えるのだろうか。それは訓練なのだ、だからそれを堪え忍ばねば、なんて誰が言えるのだろうか。私たちはそんなことを言う資格はあるのか、権利はあるのか。まるでないと思う。苦しんでいる人に向かってそんなこと言ったとしたら、その人は喜ぶだろうか。
僕は訓練だとか試練だとかという言葉は嫌いだ。何で嫌いなんだろうかと思う。上から押し付けられるような気持ちになるからだろうか。それは試練だからと言う時、それを言う人はその人の隣にはいないような気がする。大変なことに直面しているその人の側ではなく、反対側に、つまり神の側に立っているような気がする。いろんな事柄に対して、これは神さまが与えた試練です、訓練です、これは神さまからの恵みです、神の導きです、なんていう風に、一つ一つの事柄について説明する人が時々いるが、そんなの聞かされるのが大体嫌いだ。どうしてあんたに分かるのか、あんたは神なのか、どうして神の側に立って偉そうに言うんだ、と思ってしまう。
昔釧路にいたときに、教会員が亡くなったことがあった。葬儀の経験もなくどうしたものかと思っていろんな牧師に電話をした。こんなに大変なんだ、祈ってくれと。その時一人の牧師が、神さまは鍛えられるなあと言った。そうか、と思った。もしその時、それは訓練なんだから堪え忍べ、しっかりしろなんて言われたらきっと余計にしんどくなっただろうと思う。堪え忍べ、とは言わずに、鍛えられるなあ、と言った。それは神を見ている言葉なのではないかと思う。苦しい思いをしている者と同じ所に立って神を見つめている、その上での言葉だったような気がする。だからそれを聞いて少し安心した記憶がある。その時に電話した牧師は誰も、しっかりしろとか頑張れとか言う者はいなかった。牧師なんだからちゃんと牧師の務めを果たせなんて言う者もいなかった。結構牧師も捨てた者ではない。一人の先輩の牧師は、「それならば、微力だけれども祈らせてもらう」といっていた。今思い出すと涙が出そうだ。その時はそれどころではなかったけど、でもすごく安心できた。
人の苦しみに対して横から軽々しく、それは試練だから訓練だから、なんていうことはやっぱりできないように思う。試練だとか訓練だとか、恵みも導きもそうかもしれないが、それは神から人へ向かう、言ってみれば上から下へ向かう言葉だろう。きっと人から人へという横へ向かう言葉ではないような気がする。だからきっとそんな言葉は人は神からの言葉として聞いていくしかないのではないか。人に向かって、それは試練です、訓練です、なんて言えないように思う。そうではなく、苦しみに遭っているその人と一緒に聞いていく、これは私の訓練なのだよ、という声を聞いていく、そんな言葉なのではないかと思う。
神が
神が訓練してくれていると思えるならばいいよなあ。
苦しいことがあると私たちはよくばちが当たったとか、何か悪いことをした結果として辛い目に遭っている、と思うことがある。日頃の行いが悪いから大切な日に雨になる、なんてことも言う。そんなのはあまり本気では思ってはいないだろうが、何か悪いことがあるのは、結局はそれは自分が悪いことをしたからだ、自分の罪の結果なのだと思うことがある。でもそれって結構つらいことだ。実際生きている上ではいろんな苦しいことがある。辛いこともいっぱいある。それがみんな自分の罪の罰だとしたらどうだろうか。これからもきっといっぱい罪を犯すに違いないわけで、それに対してしっかり罰が与えられるとしたらちょっとたまったものではない、と思う。生きるのもいやになりそうだ。
しかしヘブライ人への手紙では、苦しいことがあるのはそれは神の訓練なのだというのだ。父親が子どもを鍛えるように鍛錬しているのだ、という。むち打つなんてちょっとどうかなとは思うが。鞭で子どもを育てるなんてことを聞くと、昔読んだ連続殺人者とか大量殺人者なんて本を思い出してしまう。鞭で育てるとそんな風になりかねないと思うが。
それはさておき、苦しく辛いことを経験するのは、それは神が私たちを鍛えているのだ、というのだ。子どもとして鍛えていると。そしてそれは私たちに、「義という平和に満ちた実を結ばせる」ためだというのだ。神をしっかりと見つめ、隣人との平和を築く者となるようにということだろうか。
苦難は神が私たちを見捨てたから起こることでもなく、私たちの罪の罰として与えれるものでもない。神が私たちを子どもとして扱っている証拠でもあるというのだ。私たちを一人前の神の子とするために鍛えているということなのだ。
しかし苦難はやはり苦しいことだ。それは訓練だから、試練だからと言って簡単にやり過ごせるようなことではない。誰かが苦難に遭っている時にも、そんなことは軽々しく言えないだろう。そうではなく、その苦難を共に偲ぶ者となるように、隣人と苦難をも共にする人間になるように、そんな中で一緒に神を見上げ、一緒に神の声を聞く者となるように、そのための鍛錬でもあるのだろう。苦しむ者の傍観者となるのではなく、その人と寄り添う者となるように、そのための訓練でもあるのかもしれないと思う。
だから苦難の中にあっても、神をしっかりと見つめ、神の声に聞いていこう。苦しみの中でこそ聞こえる神の声もきっとあるのだろう。