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礼拝メッセージより
説教題:「恵みの相続者」 2001年10月7日 聖書:エフェソの信徒への手紙 1章1-14節
使徒
エフェソとは小アジア、今のトルコにある町。そのあたりには当時いくつかのキリスト教の教会、集会があった。多分小さな教会だったのだろうと思う。その小さな教会へあてての手紙。
最初に挨拶がある。神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ。
実はパウロ本人が書いたのではなく弟子に当たるような人が書いたという節もあるが、それはとにかくおいといて、パウロは神の御心によって使徒とされた、と語る。キリスト教を迫害し、キリスト教徒を捕まえてきて処刑する側にいたパウロは、ダマスコへ向かう途中にイエスに出会い、全く変えられて今度はキリストを伝える者とされた。そのあたりの様子は使徒言行録に書いている。イエスが十字架で処刑され三日後に復活し天に昇った、それよりもかなり後の出来事だ。一緒にいた他の者たちには何も聞こえず何が起こったのかよく分からなかったらしいが、パウロはイエスの声を聞きその時から新しい生き方をはじめた。本来使徒とは、イエスが選んだ12人の弟子のことを言っていた。しかしパウロは自分のことを使徒である、処刑される以前にイエスが選んだ12人と同じ使徒である、と自分のことを語っている。聞きようによってはなんだか傲慢な言い方にも聞こえる。しかしパウロは自分は12人と同じような尊い務めをイエスから託されているという思いがあったのだろうと思う。だから神の御心によって使徒とされた、と言っているのだろう。偉そうにしたくてでもなく、12人に負けたくないからでもなく、自分にそれだけの価値があると思っているからいっているわけでもないだろう。ただ神によって選ばれた、それほどの重大な責任を負っているという思いからの言葉だろうと思う。
恵み
続いて、わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように、と語る。
恵み、それは賜物、神からの贈り物である。人間の努力によって造り出すことのできないものである。あるいはまた人間が働きに応じて与えられる報酬でもない。神さまのためにこんなにいっぱい働きました。だからこれこれをしてください、というものとは違う。恵みは神から一方的に与えられるものである。それを貰うにふさわしくない、罪に満ちていて、間違ってばかりいる、神の命令にそむいてばかりいる、なのに与えられる、それが恵みである。
こんなもの貰う覚えはない、貰う資格もない、なのに与えられるそれが恵みだ。親は子どもに対して、言うことを聞いてくれたらこれをお菓子をやるなんてことをする。いろんな人間関係でも、相手が自分の望むことをしてくれたらその人に親切にする。きっとそんなことがほとんどだろう。こちらの条件に向こうが合えば、その人を大事にする。けれども神の恵みは人間がどうであるかということを問わないで、そんな人間大事にするなんておかしい、というような人間に対しても与えられるものである。神の恵みとは、それを受けるにふさわしくなってから与えるのではなく、与え続けることでそれを受けるにふさわしい人間に変えていく、そんなものかもしれない。そんな恵みが、父なる神とイエス・キリストからの恵みがあるようにいう。
平和
また平和があるようにと言う。平和とは、ただ単に悩み事や困難や苦難がない状態のことではない。快適な生活ができる環境のことでもない。自分の心の奥底が安心していることだ。人はいろんなことに苦しめられる。いろんな災難が起こることで、いろんな非難を浴びることで、あるいは自分のだらしなさや駄目さを思い知らされることで私たちは苦しむ。人を愛さないことで、人を裁くことで、私たちは自分自身をも苦しめている。外から内から私たちは自分の心を揺さぶられ、すぐに動揺し波が立つ。落ち込んで気力をなくし、あるいはいらいらし、不機嫌になる。しかしそんな私たちにも神の平和が与えられるというのだ。自分で自分の心の波を治められない時にも、そうする力もない者にも、父なる神と主イエス・キリストからの平和があるようにと言うのだ。
受け取る
私たちは自分が何も持っていないことを嘆く。地位も名誉も才能も財産も何もない、また平安もないと嘆く。それをどうにかして造り出そう、自分の力でどうにかしようとする、けれども作り出せない自分をまた責めてしまう。しかし恵みと平和は神から与えられるものなのだ。本当は神からそれを受け取るものなのだ。恵みも平和も神から与えられている、なのに受け取ることをしないで、ないないと嘆いている、それが私たちの姿なのかもしれない。ないものばかりを求めて、あるものを感謝できていないのかもしれない。自分に対しても周りの者に対しても、できないことを求めて不平を言ってばかりいて、できることに感謝しないで、できることもできなくなってしまっているのかもしれないと思う。
神の子
続いて著者は、神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました、と語る。神は、わたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて選ばれたというのだ。それも、天地創造の前に選んでいたというのだ。私たちをイエス・キリストによって神の子としようと選んでいた、と言うわけだ。
私たちは神が選んでくれたことで神の子とされたという。天地創造の前なんていうのはちょっと言い過ぎのような気もしないでもないが、とにかくずっと前から選んでいたという。つまり私たちの状態を見て、神の子としてふさわしいからとか、合格したからそうしたというのではなく、私たちの状態に関わりなくずっと前から決められていたというのだ。私たちが神の子としてふさわしいからそうされたのではない。ただ神がそうしようと思って決めたから神の子とされているのだ。ふさわしくないのに神の子とされた、ふさわしくない者を神の子とするために、イエス・キリストにおいて、イエス・キリストの血によって贖われ罪を赦されたのだ。イエス・キリストによって私たちは神の子としてふさわしい者とされたのだ。そしてそれはただ神の恵み、神の一方的な恵みなのだ。
手紙の書かれたローマ帝国が地中海沿岸を治めていた時代、父親の権威は絶対だった。父親が生きている限り子どもに対して絶対の権威を持っていた。ローマの父親は、自分の子どもを奴隷として売ることも、子どもを殺すこともできた。子どもが成人しても、どんなに立派な人間になっていても、父親は生きている限りその子に対して絶対的な権威を持っていた。またローマ法によると、子どもは何一つ所有することができず、誰かから贈られた贈り物も父親の財産となった。
しかし一人の父親の権威から離れる方法がないわけではなかった。それは養子縁組をするということだった。そして養子縁組が成立すると、今度は新しい家庭の子どもとしての全ての権利が与えられ、古い家庭でのあらゆる権利は消滅した。以前の家族達が関係する負債や債務からも完全に解放された。養子縁組された子どもはほとんど生まれ変わったようなものだったようだ。
神が私たちを神の子にしてくださった、ということはそのようなことを意味するということだ。罪とこの世の権力のもとに完全に支配されていた私たちをそこから取り出して、神はご自身の権力の元に置いてくださった。過去のあらゆるものを全部帳消しにして、新しい神の家族の一員としてくれたのだ。
一つ
さらにやがてあらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられるという。一つにまとめられるために神の子とされているということでもあるのだろう。一つにまとめられるということは、みんなが同じになるということではないだろう。それぞれにキリストにつながることで一つとなる、それぞれがそれぞれであることで一つとなるということだろう。教会はキリストの体であって、各自は体の一部分である、それぞれに違った働きをしていると言われる。そういうふうにして一つの体を形作っている。そんなふうに一つにまとめられるのだ。だから違っていないといけないということだ。みんな同じでは体にはならない。各自が与えられた賜物を活かしてそれぞれの務めを果たしていくことで一つとなる、それがキリストの体である教会の姿でもあるのだろう。やがてあらゆるものがキリストのもとに一つにまとめられる、これが秘められた神の計画なのだという。全てのものがまとめられるために私たちは先に神の子とされている。そのために私たちは神の相続人、恵みの相続人とされている。あらゆるものにこの神の計画を、神の福音を伝えるためにも私たちは先に神の子とされているのだろう。
神の子
だから神の子として、相続人として、私たちはそれぞれに託されている務めを果たしていこう。恵みと平和を受け取り、そしてそれを十分に受け取り、神の子として、神の子としてふさわしく生きていこう。それぞれに与えられている神の務めを果たしていこう。きっとそこに喜びがある。