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礼拝メッセージより
説教題:「すぐに来る」 2000年12月31日 聖書:ヨハネの黙示録 22章12-17節
最後
今年の流行語大勝は、今世紀最後の何々、ではないかと個人的に思っている。かなり聞き飽きてしまって、何でもかんでも今世紀最後とつけていることにうんざりしてしまっている。
今日することはなんでもかんでも今世紀最後のことになってしまいそう。
ついでに苦しみと悲しみも今日で最後になればいいが。そうは問屋が卸してくれそうにない。
すぐに来る
イエスは、私はすぐに来る、と言う。
ローマ帝国の迫害に直面している教会にあてた手紙である黙示録。そしてこれは礼拝の中で読まれていたそうだが、そんな教会に対してのイエスの言葉が、わたしはすぐに来る、という言葉なのだ。この苦しみはいったいいつまで続くのか、いつまで耐えればいいのかという思いを誰もが持っていた時期だっただろう。早く終わってほしい、少しでも早く、一日でも早く終わって欲しい、そんな思いで一日一日を過ごしていたのかもしれない。それに対してわたしはすぐに来る、とイエスはいう。報いを携えてくる、と言う。
αでありωである者
イエスは自分のことを、わたしはアルファでありオメガであると言う。最初の者にして、最後の者、初めであり終わりである、というのだ。この世の初めからずっといてそして終わりまでをいるということだろう、あるいはまた、初めから終わりまですべてを支配しているということだろう。
そんなイエスが、すべてを支配しておられるイエスが、神であるイエスが、報いを持ってすぐに来るというのだ。
衣を洗う
7:14には『そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』とある。
14節の、自分の衣を洗い清めるというのは、小羊の血で洗い清めるということになる。つまりイエスの血によって自分の汚れを洗い清める、自分の罪を赦される者となるということ、イエスの十字架の血によって自分が赦されたのだということを受け入れた者となる、ということだ。
そして自分の衣を洗い清める者は命の木に対する権威を与えられ、門を通って都に入れるというのだ。その命の木は22章の最初のところによると、天の神の都にあり、神と小羊の玉座から流れ出る命の水の川の両岸にある木である。つまりイエスの十字架の血によって自分の衣を洗い清める者は神の都に門から堂々と入ることが出来るというのだ。神の都のれっきとした住人となるということだ。やがて神の都に門から入っていくことになるというのだ。
またここでは都の外にいる、と言われる人たちの事が出てくる。でもこれは、ある人は都の中に入り、ある人は入れない、ということではなく、都の外にいる者にならないで、都に入る者となるように、都に入る者のままでいるようにということだろう。
渇き
またイエスは、渇いている者は来るがよい、ともいわれる。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい、とも。命の水はただで飲ませてもらえるというのだ。
命の渇きを潤す水がここにある、それをイエスが持っているというのだ。命の水を持っているそのイエスが私たちのことを見つめてくれている、私たちを招いてくれているというのだ。
ヨハネによる福音書7:37-38イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスこそ、その命の水の源なのだ。ならばそこから離れてはならないのだ。
すぐに来る
私たちの現実は様々な苦しみがある。いろんな苦しみに直面している。しかしそんな時でもイエスは私たちをじっつ見つめている。そんな時にもイエスの手の中にあるということだ。見えない神の手は私たちの周りから私たちを包み込んでいるということだ。
「神の勝利は我々に依存していない。神は、我々が神や自分自身を愛していないときも、我々を愛する。神は、我々が神や自分自身を赦していない時も、我々を赦す。神は、我々が神や自分自身を信じていない時も、我々を信じる。神は、我々が救いを必要としていることや救われる価値があることを信じて居ない時も、我々を救う。」(現代聖書注解「ヨハネの黙示録」)
確かに神は見えない、信じられない時もある、分からないときもある、しかしそんな時でも神は私たちを支えてくれているということだ。
私たちは苦しみの大きさに、大変さに圧倒されてしまう。その苦しみに飲み込まれてしまいそうになり、その苦しみを前にして自分の小ささや無力さを嘆くしかないように思えてしまう。
しかしそんな者に向かってイエスは語りかけている。私はすぐに来る。私たちはお前を見捨てはしない。じっと見つめている。
実際は私たちが思うほどすぐには来たわけではなかった。まだ終末は来ていない。それは神のすぐと人間のすぐとは違うということなのかもしれないが、すぐ来るというのは、その時までずっと相手のことを考え続けていると言うことなのかもしれないと思う。何月何日に来ると言うときにはその時までは別のことをしているわけだが、すぐに来るというときには、次に来るための道のりをすでに進んでいるというような、いつになれば到着できるかとずっと考えているような、そんな事なのではないかと思う。待たせている相手のことをずっと考え続けているというような事なのではないかと思う。イエスの言うすぐ来る、ということはずっと私たちのことを考え続けているということなのではないかと思う。
あなたたちは命の木の権利をもう持っている、神の都に入る事ができることになっている、だから神の都の住人として生きなさい、苦しみの中にあっても、神の都の住人として生きなさい、そう言われているようだ。もうすでに神の見えない手の中に生きているのだ、神の不思議な導きの中に生きているのだ、初めから終わりまで、すべてを支配しておられる神の、その導きの中に生かされている者なのだ。だから、そういう者として、神に導かれている者として、神に生かされている者として、神の民として生きていきなさい、と言っているのだろう。
イエスはすぐに来る、だから今の苦しみをも耐え忍んでいこう、どんな時も私たちを支えてくれている神を見ていこう、見えないけれども神のみ手が自分を支えてくれていることを、神が共にいてくれていることを知っていこう、黙示録を書いた著者は迫害に直面し苦しみの中にある教会の人たちをそう励ましている。
休み
マタイによる福音書11:28にイエスの言葉がある。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
ここではイエスのもとに来なさいということだが、イエスのもとにいることで休ませてくれるというのだ。
これはこの前録画して見たプロジェクトXというテレビにも出てきた。かつて戦争の時に特攻隊用の飛行機を設計したことで苦しんでいた人が出会った言葉だそうだ。その人は今度は自分の技術を平和のために使いたいと言うことでその後新幹線を作った。
また少し前に本屋で大学時代の友だちの好きだった歌手の本を見つけて何気なく見ていた時にこの言葉が載っていた。その人は障害を持つ子を育てていて、そのことでとても疲れていた。ある日公園のベンチに、この言葉が落書きしているのを見つけて、それまでの緊張していた気持ちが解けて、随分楽になったというようなことを書いていたように記憶している。立ち読みだったので不正確。
イエスは私たちを休ませると言う。私たちの苦しみは変わらないかもしれない。苦しみの種はそのままである。僕は苦しみの種がなくならないことには何にもならないと思っていた。何にも変わりはしないと思っていた。しかしイエスは私のところに来なさい、あなたを休ませる、というのだ。イエスのもとで休むことで、私たちは力を得ることができるのだろう。
私たちは神に私たちの苦しみの種をなくして欲しいと願うことが多いのではないかと思う。苦しみの原因を一掃してくれることを願う。でもイエスは苦しみの原因を一掃するという仕方ではなく、私たちを休ませその苦しみに立ち向かう力を与えるという仕方で私たちを支えてくれているのではないかと思う。
水
いろんな問題やいろんな苦しみの中に私たちも生きている。しかし私たちもこのイエスに支えられているのだ。イエスに愛されているのだ。イエスに見つめられているのだ。だから命の水をもらいながら、苦しみの中にあってもイエスを見上げて、イエスに聞きながら生きていきたいと思う。
目の前に立ちはだかる苦しみだけに目を奪われるのではなく、すべてを支配している神を見つめて生きていこう。