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礼拝メッセージより
説教題:「はじめに」 2001年1月7日 聖書:創世記 1章1節-2章1節
関係
歴史的に科学的にこのようになったというわけではないだろう。科学的にこうなったということを主張するために創世記がまとめられたのではない。そうではなく、神と被造物との関係、神と人間との関係を表すために書かれたもの。創世記は神と人との関係を示す物語。
人間は神によって造られたという。人と神には、造る者と造られた者という関係があるというのだ。また神はすべてを造ったものでもあるというのだ。全ての命のもとが神である。自分の命のもとも神であるというのだ。我々の神は天地の造り主であるということだ。
絶望
創世記がまとめられたのはイスラエルの民がバビロン補囚を経験している時だそうだ。国がなくなってしまい、自分たちは一体なんだったのかということをもう一度考え直す時だったろう。国が負けるということは相手の国の神の方が強いというような考えもあったらしい。自分たちの神が相手の神に負けてしまったのではないかというようなことも考えられたらしい。しかしそういった不安を抱えている民に向かって、何があろうとこの神はすべての命の源であるのだということ、国がなくなり苦しい思いをしているけれども、なお神は神であり、自分たちはこの神に造られた者としていきていくのだということを伝えている。
混沌
最初に地は混沌であり、闇が深淵の面にあったという。国が滅亡し、主だった人たちは敵の国バビロンに補囚され、まさに混沌の時代であった。しかし神は混沌と闇の中から天地を、そして全てを創造する方であるというのだ。混沌と闇の中で神は言葉を発し働きかけるのだ。
目的
また、神が創造したということは、神が目的を持っているということだ。神の目的があったから私たちは創造されたということだ。目的がなく造るということはない。創世記は、人は偶然生まれたのではなく、神が造ろうとして造られたから生まれたのだという。それが何のためなのか、それは神に聞くしかない。またどのように生きることが私たちにとってふさわしいことなのか、それも神に聞くしかないということになる。造った者こそがそれを知っている。
確かなことは、人が神に聞く者となることを期待しているということだろう。神は人がそれを聞くようにと願って語りかけているのだろうと思う。神が語り、人が聞く、そんな関係を持ち続けることが私たちにとってのあるべき姿だろう。
苦しみ
苦しみに会うとき、会っている時、病気になったとき、何もかもうまくいかず訳が分からずまさに混沌に極みにあるとき、あるいは目の前に得たいの知れない暗闇が待ちかまえているように思え、ただうろたえるしかないようなとき、いったい誰に助けを求めればいいのか分からなくなる。何処に神がいるのか、神はどこへいってしまったのか。神は私を見捨てたのかと思う。
しかし神は混沌の中に言葉を発し、働きかける。
光あれと言うことで、光と闇とを分ける。また水は混沌を意味し、また怪獣のすみかであるように考えられていたそうだが、神はその水を分け、乾いたところを造る。
神は闇も水もなくしはしない、しかしその中に光を乾いた地を造り出す。神はそういう仕方で働きかけておられるようだ。
私たちは苦しみがなくなってほしい、自分の都合の悪いことがなくなってほしい、私たちの病気や死や怪我や嫌な思いや不機嫌になる出来事を何とかなくして欲しいということを願い祈る。私たちはそう祈ってもそう簡単にはなくなりはしない。でもどうもそんなものはなくなってはくれないらしい。死にたくないと願っても死から逃げ出すことは誰にも出来はしない。
しかしそんないろんな苦しみがある中に、闇や水がある中に、神は光を乾いた地を造るのだ。苦しみをなくすのではなく、光あれと言って光りを造る、そういう風にして神は私たちに関わってくれているということだろう。そして神はそれを良しとされている。光と闇があることを神は良しとされているのだ。ならば私たちが闇がなくなることばかりを必死に求めるとしたらそれは神が良しとしたことを私たちが良しとしていない、ということになる。苦しみがなくなることばかりを必死に求めることではなく、光を求めること、それが私たちがすべきことなのかもしれない。
光を
社会に向かっても、また自分自身に向かっても闇をなくそうとすることに一所懸命になっているのが現状ではないか。そして案外そのなくならない闇のことばかりを考えているのではないか。そして闇がなくならないことにいらいらし、愚痴をこぼすことばかりに熱心になっているのではないか。
闇をなくすことよりもむしろ光を求めること、光を見いだすこと、闇の中に神が輝かせている光を見つけること、それこそが大事なのではないかと思う。