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礼拝メッセージより
説教題:「飼い葉桶の救い主」 2000年12月24日 聖書:ルカによる福音書 2章1-21節
クリスマスは華やかな日。とても楽しい日。確かに。
でも聖書の中のクリスマスの記事はあまり華やかでもきらびやかでもない。
イエスが生まれた時、世界中でお祝いされたわけでもない。そういう点ではとても地味な誕生だった。ひっそりと生まれてきた、といった方がいいくらいだった。
イエスは生まれてすぐに飼い葉桶に寝かされていた。つまり家畜の餌の入れ物の中に寝かされていた。とても清潔とはいえないところに生まれた。またそこは家畜によって踏まれるか、あるいは蹴られるかする危険があるところだった。
母マリアと許婚であるヨセフは住民登録をするためにベツレヘムという町へ行かねばならなかった。もうじき子どもが産まれるというのに120kmほども離れた町まで出かけねばならなかった。
しかもベツレヘムに着いてからも7節にあるように、宿屋には彼らの泊まる場所がなく、仕方なく家畜小屋に泊まっていたためこんなことになってしまったようだ。旅先での大変な不安な出産だった。こんなひどい出産聞いたことない。そしてイエスは十字架に向かって進んでいく。
ところで、よくイエスの誕生は馬小屋であったと言われるが、聖書には馬小屋で生まれたとは書かれていない。何の小屋か分からない。小屋だとも書かれてはいない。ただ飼い葉桶という言葉が出てくるだけである。飼い葉桶があるところということで家畜小屋だろうと考えられるが、そこにどんな家畜がいたかももちろん書かれていない。馬は戦争に使う貴重な動物でこのイスラエルにはいなかったと考えられるそうだ。西欧の画家はクリスマスの場面に馬を描くことはなく、きまって牛とロバを描くそうだ。実はそこには牛かロバがいた可能性の方が高いらしい。
イエスの誕生の知らせを最初に聞かされたのは羊飼いたちであった。羊飼いという仕事は当時はあまりいい仕事とはみなされていなかったそうだ。医者や弁護士や官僚とはちがう。当時、羊飼いはまともな人間と見られていなかったそうだ。一人前として扱われていなかったそうだ。羊飼いは人口調査の対象にもならず、税金を支払う能力もないと考えられ、一人の人として認められていなかったそうだ。ほとんど社会からのけ者にされている者たちであった。そんな社会からつまはじきされている者のところへキリストの誕生は真っ先に知らされた。
彼らのところに天使が突然現れる。すると羊飼いたちは恐れた。非常に恐れた。
彼らはイエスの会いに出かける。そして見事に探し当てる。どれくらい探したのか、家畜小屋をしらみつぶしに探したのだろうか。そこに発見するイエスは天使の言うとおり、飼い葉桶に寝ている一人の乳飲み子であった。無力な乳飲み子であった。ただの赤ん坊であった。
羊飼いたちは見聞きしたことが天使の言う通りだったので神をあがめ、讃美しながら帰っていった。羊飼いたちが神をあがめ讃美したのは、この赤ん坊が光り輝くような子どもだったからでもないだろう、この子はごく普通の小さな何もできない赤ん坊だったはずだ。しかし羊飼いたちはそこに寝かされている赤ん坊の中に神の業を見ているからだ。神の知らせてくれたとおりだったことを知ったからだ。神がそこに働いていることを知ったからだ。だから彼らは神をあがめ讃美しながら帰っていったのだろう。
しかし羊飼いたちは救い主に、キリストに会っただけで帰っていってしまった。なんだか不思議な気がする。
私たちは神にいろいろな事を期待する。神が目の前にいるとなると、神を発見したとするといったいどんなことを期待するだろうか。
大きなことから、小さなことまで。これして下さい、あれして下さいとお願いしそうである。
しかし羊飼いたちは、乳飲み子から何かをしてもらおうとはしなかった。救い主に接して、彼らは自分の願い事をかなえてもらうように頼みもしなかった。
そもそも頼みごとをしにいったのでもない。ただ救い主に会いにいっただけだ。乳飲み子に会いにいっただけだ。
それだけで彼らは、神をあがめ、讃美しながら帰っていった。彼らは願い事をしに行ったのではなく、会いに行っただけなのだ。もうそれだけで十分といった感じだ。それ以上のものは必要ないといったようなことかもしれない。それに比べればなにかをしてもらうことなど、たいしたことではないかのようだ。というか、彼らにとっては救い主を見ることこそがなによりの願いだったのだろう。彼らにとってはそれこそが一番の喜びだったのだ。自分たちの救い主がキリストが生まれた。それでもう彼らは喜びいっぱいだったのだろう。それを確かめるだけで彼らは十分だったのだろう。その喜びを彼らは見つけたのだ。何かをしてもらうこと、自分の願いを叶えてもらうことではなく、キリストに会うこと、キリストを見ること、それこそが彼らにとっては十分喜びだったようだ。羊飼いたちの姿が礼拝なのかもしれない。キリストに会うこと、そのことを喜ぶこと、それこそが礼拝なのかもしれない。
社会的には疎外されのけ者にされている羊飼いたちは喜び、讃美しながら帰っていったのだ。イエス・キリストに会うことで彼らの状況が変わったわけではない。何も変わっていない。しかしその中で彼らは喜ぶを発見したのだ。
私たちは弱い存在である。何か少しでも順調に行かなくなったらうろたえてしまう。そして死を迎えるとき、それが自分の死でなくても、そのことで奈落の底へ突き落とされるような絶望感を持つ。
死も、苦難も、失敗もないところに私たちの幸せがあるように考える。しかし、死からも苦難からもそして多分失敗からも逃げられない、避けれない。それが人生だ。死や苦難や、思うようにいかない事に私たちの人生は振り回される。人生とはなんだ、ただむなしい物なのか。ただひとり荒波にもまれるようなものなのか。しかし、その私たちの人生の中に神が介入しておられる。人生が横に流れるとすれば、神は上から垂直に関わってきておられる。それがクリスマスではないか。
いかんともしがたい、なかなか思うようにならない、苦しい事の多い人生、なんだかむなしく感じる人生に、神は上から切り込んできたのだ。イエスは生まれた時から荒波にもてあそばれるようなものだ。
人生を揺さぶるいろいろな出来事に私たちは恐れる。そして神からの介入にも恐れる。神もまた私たちを揺さぶるとすればそれは恐れでもある。羊飼いたちは恐れた。非常に恐れた。しかし天使は恐れるなという。あなたがたのための救い主が生まれたというのだ。
死も苦難もある私たちのこの人生を、全部ひっくるめてなおかつ救う、そんな方が生まれたのだ。自分ではどうにもならないこの人生を根底からすべて支えてくださる方がこられたのだ。
だから羊飼いたちはイエスに会ってもことさらに何かを求めることもなかったのだろう。自分の人生に神が関わっておられること、自分の人生を神が注目しておられることがわかったからだ。彼らにとってはそれがなによりの喜びだったのだ。
生まれたばかりの赤ん坊は飼い葉桶に寝かされていたという。そしてそれは宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからだという。もうじき赤ん坊が生まれそうだという産婦を泊める場所がどこにもなかったというのだ。イエスは生まれる時からのけ者にされていたということらしい。人の優しさが一番必要な時にやさしくされなかった、そんなところにイエスは生まれた。しょうがないよ、宿屋はいっぱいなんだから、と人が邪険にしてのけ者にして、追い出している、そんなところにイエスは生まれた。人から、社会からのけ者にされ冷たくあしらわれるところにイエスは生まれた。そして社会からつまはじきされている羊飼いたちに最初のクリスマスの知らせが届いたのだ。
社会が見捨てたところにイエスは生まれた。誰からも大事にされない、誰もが認めないところにイエスは生まれた。私たちは社会に適応できない自分をダメだと思っている。社会に認められないとダメだと思っている。社会が認めないようなものを持っている自分のことをダメだと思っている。またいつ社会からつまはじきされやしないか、のけ者にされやしないかと心配している。しかしイエスはそんな誰からも認められず、自分でも認められないと思っている、そういう場所に生まれたのだ。こんな事ではダメだ、社会に認められないと思っているそんな人の隣にイエスはおられるのだ。こんな自分は誰からも認められない、一人前ではないと思っている人の中にイエスは生まれたのだ。誰からも見放されてしまってひとりぼっちになってしまっている人に会うためにイエスは生まれたのだ。そしてその人といつも共にいること、その人をいつも愛していることを知らせるために生まれたのだ。誰からも認められなくても自分でも認められなくても、私は認める、私は見捨てない、私はずっと共にいる、イエスは私たちに対してもきっとそう語りかけている。