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礼拝メッセージより
説教題:「小さい者」 2000年5月14日 聖書:ルカによる福音書7章18-35節
戸惑い
バプテスマのヨハネの弟子はヨハネにイエスのことを話した。そのころヨハネは獄中にあったようだ。その弟子の報告を聞いてヨハネは随分戸惑ったようだ。
ヨハネは律法を守り、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと言い、罪の赦しを得させるバプテスマを受けるようにと言っていた。そして自分の後にメシアが現れると言っていた。自分はその方のくつにひもを解く値打ちもないと言っていた。
ヨハネはメシアが来ることを待ち望んでいるようだ。しかしそのメシアがイエスなのかどうか、それが分からなかった。いろんな情報は耳に入ってきていた。ヨハネの弟子達もいろんなことを報告したようだ。しかしイエスの行動や言葉は、ヨハネの持っていたメシアのイメージの中に収まりきらないものだったようだ。
問い
そこでヨハネはイエスのもとに自分の弟子を派遣してイエスに問いかける。来るべき方はあなたなのですか、と。
イエスはその問いには肯定も否定もしない。そうだとも、違うとも言わない。ただ自分で見聞きしたことを、つまりイエスの周りで起こっている出来事、それは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」そのことをヨハネに伝えなさい、と言うのみだ。そして「わたしにつまずかない人は幸いである」とも。
自分で判断するように、ということのようだ。誰かの判断に任せるのではなく、自分で判断するようにということのようだ。そして本人がどう言っているのか、ということよりも、そこで何が起きているのか、それをよく見て判断するようにということのようだ。
私たちは誰かの判断をそのまま鵜呑みにすることがある。自分が判断するよりもその方が楽であるときもある。あの人がいいと言っているからいいんだろうと思うことがある。
最近テレビショッピングが大流行である。いろんな会社がやっている。必ずタレントが出てくる。会社の人が説明をする横で、これはいい、これは安い、と言うのがタレントの役割のようだ。そのタレントがいい、安いというのを聞くことで安心して買ってみようかなという気分になるようだ。
誰かがいいとか悪いとか言う言葉に私たちはとても影響されやすい。あの人はいい人だとか悪い人だとか言う言葉にもとても影響される。あいつは駄目だ、というところで、そんなことはないいいやつだ、とはなかなか言いにくい。人はいい人間と悪い人間に別れている訳ではないので、人の対する評価も人によって様々になる。この人もあの人も自分の中のいい友だちである、けれどもこの人とあの人は中が悪い、なんてこともある。自分のよく知っている人のことであれば、誰かがその人のことを悪く言ったとしても違う面もあると思えるし、違う見方も出きる。しかし知らない人のことを悪く言われるとその人のことを極悪人のように思ってしまう。
問題なのは、誰かの言ういいとか悪いとかいう言葉に影響されて、その人自身のことがよく見えなくなってしまうこと、見なくなってしまうことなのだろうと思う。これはいい、安い、と聞くことで、その物がどんなものなのかということをじっくり見ることをやめて、本当に必要なのかということを考えずに買ってしまうことが問題なのだろう。
イエスはヨハネの弟子達に対して自分のことを言うことはしなかった。俺がメシアだ、どうしてそんなことも分からないのか、ちゃんとヨハネに伝えておけ、とは言わなかった。そうではなくイエスのことをじっくり見るように、そこで起きていることをしっかり見聞きするようにと言う。誰かがそういうからイエスがメシアなのだ、ではなく、またイエス自身が言っているからメシアなのでもなく、自分でメシアだと分かるからメシアなのだ、と言いたかったのではないか。あの人が言っているから、というだけではイエスはメシアではないキリストではない、救い主ではないのかもしれない。自分でイエスがキリストであると分かるからこそイエスは自分の救い主になるのだろう。キリストはよく分からないけれど兎に角拝んでおこうというような対象でもなく、よくわからないけれども何かいいことがあるかもしれないから献げ物をしておこうという相手でもなく、個人的な繋がりを持つ相手であるのだろう。イエスはそんな繋がりを持つことを求めているのではないか。自分のキリストである、自分の救い主であるという関係を持ちたいと願っているのではないか。だからこそ自分の判断を大事にしようとされているのではないか。
大きい者
その後イエスはヨハネについて語る。ヨハネのことを女で産んだ者のうち最も大きい者だと言う。彼は律法をきっちりと守ったようだ。それはファリサイ派の人たちからも憎まれ口を叩かれるほどのものだったようだ。また彼と弟子達は政治的に影響を及ぼすよな集団ともなっていたらしい。
しかしそのヨハネも、神の国で最も小さい者でも彼よりは偉大である、と言われる。この世ではヨハネよりも立派な者はいない。がしかし神の国に入れられるとそのヨハネよりも大きい者となるということのようだ。この世ではいろんな業績、立派さ、が人の評価の基準となる。しかし神の国ではそんなこの世の基準ではない新しい基準があるということだろう。業績や立派さということに関係なく、誰もが大事にされる、誰もが大きい者とされる、そこが神の国なのだということだろう。律法を守れない者をも神の国に招かれている、だから悔い改めよ、とヨハネはといたのだろう。
ファリサイ派
しかしそのヨハネの言葉を認めない者がいた。それがフィリサイ派の人々や律法の専門家たちだった。彼らはヨハネのことを、「あれは悪霊に取り憑かれている」と言い、イエスのことを「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言った。
彼らにとっては自分たちの仲間でない者、自分と同類でない者、もっと言ったら自分の言いなりでない者はみんなおかしな訳の分からない奴ら、にされてしまうようだ。熱心に律法を守り断食し祈っている者に対しては、悪霊に取り憑かれていると言う。逆に断食も祈りもしない、安息日の律法を破り病気をいやす者に対しては、大食漢で大酒のみだと言う。
こういう人たちのことを一体どうしたらいいのか、どうすることもできない、というように思う。こういう人たちに言うべき言葉はないように思う。ああ言えばこういう、といった感じだ。何をやっても何をいっても文句しか帰ってこないようだ。
彼らはただ論評するだけである。ヨハネが禁欲的であれば悪霊につかれたといい、イエスが自由に振る舞えば大食漢で大酒のみだという。どっちにしても自分は動かないで、駄目だ駄目だといっているだけだ。
どんなすごいことが起こっても彼らはそれを批評し、非難の対象にしてしまいそうだ。どんな神業が起こっても彼らにとっては非難の対象でしかなさそうだ。
今の時代がそれだ、とイエスはいった。笛を吹いたのに踊ってくれない、葬式の歌を歌ったのに泣いてくれない、そんな時代だという。そして人の文句ばかりをいう。人のすることに対する批評をすることには熱心だが、自分では何もしない、そんな時代だという。笛を吹いたのに、葬式の歌を歌ったのに真剣に聞いてくれないという。聞いて感動してくれない。ただ非難するだけただ批評するだけ。
神の出来事が起こっている、神が招いている、なのに人の非難をするばかりでいる。自分に語りかけられた言葉に対してもそれを非難の対象にしてしまうことがある。それが私たちの姿でもあるのかもしれない。
自分に語りかけられた言葉を心の中に入れていないということだろうか。その言葉がどんなにいいことばだとか言って批評しても、心に入れなければ感動はない。どんなに高価なワインもその良さの説明をいくら聞いても、飲まなければ酔えないのだ。どんなに美味しいと聞かされた料理でも食べなければ美味しくはない。
聖書の言葉もきっと同じだろう。それを食べて味わわなければそれは消化できない。身に付かない。もっと食べて見る必要があるのではないか。聖書に触れるとき、み言葉に触れるとき、もっともっと心で読む必要があるのかもしれない。それ以前に、理解しなければとか、分かったような顔をしなければ、と思うことが多い。
生の声を、その人自身の声をもっともっと聞いていかねばならないのだろう。それをしないから余計に批評的な批判的な見方になってしまうのだろう。
誰かの言葉の中に、神の言葉の中に、聖書の言葉の中に、私たちを感動させる、躍らせ、涙させる言葉があるように思う。私たちを神の国へ招くその言葉を聞いていこう。