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礼拝メッセージより
説教題:「招き」 2000年5月7日 聖書:ルカによる福音書5章27-32節
聖書
聖書の中に登場する人物にもそれぞれの人生がある。当たり前だが書物になってしまうとついついそれを忘れてしまいそうになる。善人なのか悪人なのか、というような見方になってしまいがち。人生いろいろ、なわけで誰でもいい面も悪い面も持っている、いろんな苦しみも感情も迷いも持っているはずなのにそれをつい忘れてしまいがちではないか。今日登場するレビはどんな思いを持って過ごしていたのだろうか。そんなことも考えながら呼んでいきたい。
レビ
その後、イエスはレビという徴税人がが収税所に座っているのを見かけて声をかけた。「わたしに従いなさい」。そうやってまた弟子としてを招いた。少し前のところで、シモンやヤコブやヨハネを招いた時と同じように、突然の呼びかけだった。
イエスのまわりには群衆が集まっていたが、レビはその中にいなかった。その中に入ることが出来なかったのかも。入りたくてもなかなか入れなかったのかも。もうすでに他のユダヤ人たちとは繋がりをもっていない生活をしていたのかもしれない。
徴税人
徴税人をユダヤ人は憎んでいた。異邦人と付き合い、支配者ローマの手先になって、人々に耐えきれないような圧迫を押しつけてくるとんでもないやつらだと見ていた。ローマは税金を取り立てるのに、地元の人間を徴税人にしたそうだ。そして徴税人は決まった額以上のお金を取り立てて、余ったお金を着服していたそうだ。ローマもそのことに対して見て見ぬ振りをするようなところがあったらしい。
そこでユダヤ人たちは、支配者の手下となって働いている、しかも同胞からお金をだまし取るような徴税人を罪人とみなし、遊女と同類の人間だと見ていた。親族の一人が徴税人になると、すべてが同じ仲間と見なされたという。
どうしてレビが徴税人になったのかは分からない。恐らく好きでそんな仕事についたわけではなかったのだろう。わざわざまわりから白い目で見られる仕事を喜んで続けていたわけではなかっただろうと思う。どうしても金が必要になったからかもしれない。あるいは金持ちになればいい生活ができる、幸せになれると思っていたからかもしれない。しかしどうやら幸せにはなっていなかったようだ。お金は持っていたかもしれないが、お金ではどうにもできないむなしさを感じていたのではないかと思う。
しかもレビも他の徴税人同様に、回りから罪人として見られていたのだろう。群衆がイエスのまわりに群がって大騒ぎしている間、仮にレビがイエスに付いていくことを望んでいたとしても、そうは問屋が卸してはくれない、周りの群衆がそれを許さないような、そんな状況だったのだろう。
きっとレビの耳にもイエスの噂は届いていたであろう。預言者か、あるいはメシヤかもしれない男が現れたというので、多くの群衆がついていっていたこともきっと知っていたであろう。もしかしたらこのイエスがいろんなことを変えていくかもしれない、自分の人生をも変えるかもしれない。しかしだからといってレビが群衆に交じってイエスについていくことが許されるような状況ではなかっただろう。そのイエスが自分の収税所の前を通りすぎていく。しかしレビは座ったままだった。
呼びかけ
こんなレビにイエスは声を掛けた「わたしに従いなさい」。イエスがレビを見て声をかけた。
イエスの呼びかけにレビは何もかも捨てて立ち上がりイエスに従った。人生に疲れて、重い心をひきずり、立ち上がれずにいたレビだったのではないか。かといって今更やり直すほどの勇気もなかったのではないか。イエスというすごい男が現れた。イエスについていく人たちも大勢いるらしい。しかしレビにとってはそのイエスについていってみよう、今度はイエスに人生をかけてみよう、と決断する力も勇気もなかったのではないか。
そんなレビにイエスは声をかけたのだろう。「わたしに従いなさい。」どっちにすすんでいけばいいのか分からなくなってしまっていた者、人生の迷子になってしまったような者に対して、こっちへ来るんだ、と呼びかけているような言葉だったのではないか。
再出発
そのイエスの言葉はレビにとっては暗闇の中に差してきた光のようなものだったのではないかと思う。どっちに行けばいいのか分からない、何をどうすればいいのか分からない、そんな時にかけられた言葉だったのではないか。だからこそレビは立ち上がり、何もかも捨ててイエスに従ったのだろう。
レビの心はイエスの言葉によって立ち上がった。そしてそれはレビにとって大きな喜びでもあったようだ。その喜びの現れが、イエスを食事に招待したことだった。レビはイエスを食事に招待したが、イエスだけではなく、イエスご一行様みんなを食事に招いたらしい。その食卓には多くの徴税人や罪人をその席についていた。そんな人達がおおぜいイエスに従っていた。レビはそういうイエスとの繋がりの中に、またその他の群衆との繋がりの中に喜びを見いだしていったに違いないと思う。
当時はよく客を招いての食事が、戸外や中庭や、見通しのきく屋上でなされたという。ここに義人であるファリサイ派が登場しこれを見て弟子たちに言う。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。
こんな文章があるそうだ。「義人は、自分の正しさを他人によって守ろうとする。他人にきびしいことによって、どれほど自分が義人であるかを示そうとする。義人といい、聖職者といいこれほど欺瞞に満ちたものはない。他人を責め、世の中を責めることで、いつのまにか自分が義人であると思い込む罪のからくりを自ら知ることは、実に実にむずかしい。そうでなくても人は、不親切な人を見て憤るよりも、親切すぎる人を見て腹立たしく思うことがある。陰にこもって毒々しい。」
こういうことを聞くとすぐに、あいつのことだ、あいつに聞かしてやりたいと思い当たる人の顔が浮かぶ。それこそがここに言う義人のことかもしれない。
罪人
ファリサイ派の人達は、このような徴税人、罪人は汚れていると考えていた。汚れたものと同席すれば、その人も汚れると。
しかしそんなまわりの者から疎外されていた、のけものにされていた、けがらわしいとされていた者たちと、イエスはいつもいっしょにいた。虐げられている者たちと一緒だった。共に生きていた。
招き
社会から落ちこぼれ、落伍者とされた者たち、罪人とされ汚れているとされた者たち、そこで生きる力も希望もなくしているような者たち、行き詰まってしまってどうすればいいのか分からず、生きていく力もなくしてしまった者たち、そんな人たちにイエスは声をかけ、自分についてくるようにと言っている。そんな者たちを招きに来たと言っている。
正しい人
しかしファリサイはの人たちはそんなイエスを非難した。どうしてファリサイ派の人達は、イエスを非難する役にまわってしまったのか。
この人達もイエスに興味を持っていたのではないか。旧約聖書に預言されているメシアがやがてやってくるということはよく知られていたようだ。ましてファリサイ派の人達はそんなことは重々ご承知だった。しかし、彼らにとってはメシアとは、イスラエルを政治的に強い国、独立の国家にしてくれる者と考えていた節がある。その彼らのイメージとイエスとは似てもにつかないものがあったらしい。
しかしそれ以上に、メシアは自分たちこそ招くはずだという思いがあったのではないか。汚れた罪人よりもまず自分たち正しい人間を招くはずだ、という気持ちがあったのではないか。俺達の見方であるはずであると思っていたのではないか。あんな奴らと仲良くしている者がメシアであるわけがないと思っていたのではないか。彼らにとっては正しい人間が罪人と一緒に飯を食うなんてことは考えられないことだったようだ。というよりも、そんなことは赦しがたい赦されないことだったのではないか。そしてそれが当時の社会の習慣でもあった。
ファリサイ派にとって、その罪人とは言うなれば、自分たちの世界の外側の人間であった。自分たちよりも下にいる人間だった。差別している人間。ファリサイ派は自分たちを清い人間と思っていた。自分たちは律法をきちんと守っているという意識があったから。そういう満足感と優越感があった。それを誇りにして、律法を守れないものを罪人、として見下げていた。あいつらとおれたちは違うんだ、と区別していた。そして差別していた。
人を分けて、お前はあっちだ、こっちへくるな、ということが人間はすきだ。ファリサイ派がそうやって人を分ける時、イエスはいつも外側にいた。いつも差別される側にいた。
しかし人には自分以外の人の間違いを見て自分を正当化しようとする思いが誰にもあるに違いない。自分を正当化し、自分を変えないようにしたがる気持ちがある。周りは変えたい、しかし自分は変えたくない、という思いがある。何か問題が起こっても悪いのは社会であり周りでありあの人である、と思いたい。自分の気持ちがすぐれないのも、自分が満足できないのも、原因を周りのせいにしたがる。それは周りが悪いから、あの人が悪いからだ、と思い、自分を省みることも変えることもしないで、文句ばかり言っている、それが私たちの姿でもあるように思う。立ち上がることで新しい世界が見えてくるのに、座ったままで見えない見えないといっているような者なのだ。しかし人は依然として立ち上がるのをいやがり、そこにしがみつこうとする。ずっとそのまま椅子に座り続けようとする思いがある。
私たちは誰もが自分中心なんだろうと思う。自分がどうなのか、自分にとってどうなのか、自分にとって得かどうか、自分が満足できるかどうか、という自分中心な思いを持っている。そしてそんな思いに縛られているのではないか。自分がどれほどの物を持っているのか、どれほどのお金を持っているか、どれほどの地位と名誉を持っているか、どれほど賞賛されるものを持っているか、そんな思いに縛られている。
招き
こんなわたしにも、私たちにも、イエスは声を掛けておられる。私に従ってきなさい。わたしは罪人を招くために来た、と。こっちに来てみなさい、俺についてきてみなさい、とイエスは言われているようだ。自分のことは棚に上げて人を裁いて人の悪口を言って義人のふりをする、そんな私たちにもイエスは声をかけられている。自分中心で、自分のことばかり考えている、自分のことしか考えない、そんな椅子縛り付けられている私たちにも、イエスは、わたしに従ってきなさい、と言われているのではないか。立ち上がって新しい世界へ来るようにと招いてくださっているのではないか。
罪人を招いて悔い改めさせるためだ、とイエスは言う。それは、自分だけよければ、という生き方から、神と共に生きる生き方、隣人と共に生きる生き方へと方向転換することだろう。そんな新しい世界へイエスは私たちも招いておられる。
レビはイエスの招きに答えて立ち上がった。レビは新しい生き方をはじめた。自分だけの欲望を満足させようとする生き方から、イエスと共に隣人と共に生きる生き方へと変えられた。そこにレビは喜びを見いだしたからこそ大宴会を催した。イエスは私たちも喜びへと招いておられるのではないか。重い腰をあげ、立ち上がりイエスに従うところ、そこには喜びが待ち構えているに違いない。神と共に生きること、隣人と共に生きること、それは神がそうしろと命じている苦しいだけの世界ではなく、他のどこにもない喜びの世界であるのだろうと思う。イエスはそんな喜びへ私たちをも招いておられるのではないか。