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礼拝メッセージより
説教題:「失望の彼方」 2000年5月28日 聖書:ルカによる福音書8章40-56節
ヤイロとはどういう人であったか。名前が出ていることからかなり重要な立場の人らしい。
会堂長。ユダヤ教の会堂の管理人。会堂≒教会。ユダヤ人にとっては心の拠り所。その会堂の管理人。会堂の運営や儀式の設定についての責任者でもあった。キリスト教で言えば教会の牧師のようなものか。
今の日本の牧師は大した権威はないが、当時のユダヤ教は単なる宗教団体ではなく社会そのものでもあった。生活と宗教とが密着している中で、その拠り所である会堂の管理人は人々から尊敬され、社会的信用の深い人物であり、社会的な影響も与えていたのであろう。あそこの会堂長があんな説教をした、なんてことから社会が動くようなこともあったに違いない。今の日本の牧師が何を言っても社会的な影響力がほとんどないのとは訳が違うのだ。
このヤイロがイエスをどうみていたのか。もちろん噂は聞いていたのだろう。ユダヤ教にとっては、イエスは自分を神の子だといい、律法を公然と破る異端者であり、敵対者であった。宗教的な反逆児というだけではなく、社会を乱す者でもあった。おかしな関わりは持ちたくない、問題を起こしてもらいたくない、少なくとも自分の土地では何もしてくれるなと思う、そんな人物であり、また場合によっては攻撃しなければならない対象でもあったはずだ。実際ユダヤ教の指導者たちはイエスの命さえもねらっていたのだから。
しかし、娘が思い病気になり死の恐れが彼の家をおそった時、彼の心にうかんだのは、イエスへの思いであった。イエスのところへ行こうと思うまでにはいろんなことがあったに違いない。なんとか行かないで済む方法を考えたであろう。ある障害をもった子の母親の話を聞いたことがある。そのお母さんはいろんな宗教の所へいったそうだ。思いつく限りの。でも教会だけは行かなかった。教会があることは知っていたが、そこは自分と関係のない所だと思っていたそうだ。そして最後にやってきたのが教会だった。そしてそこに自分の居場所を見つけたそうだ。
ヤイロも多分あらゆることをやってもだめで、結局はイエスにすがるしかないのだろうか、そんな思いになっていったのであろう。そしてこの思いが頭から離れなくなったのではないか。
それまでは、社会から取り残されたような者、つまり会堂から追い出されたものや会堂に入れてもらえないような者に対して、イエスが配慮し、様々な問題を解決しているうわさを聞いて、ユダヤ教側のヤイロは立場上苦々しく思い、批判的に見つめていたに違いない。
しかし、今自分の上に大きな悩みが降りかかってきたとき、どんなに努力しても、誰の力をかりても娘の命を助けられないと分かった時、ヤイロの思いはイエスへと向いていった。それは同時に自分の社会的立場も名誉も、世間体も投げ捨てることでもあった。
死にかかっている娘を前にして、ただ見守ることしかできない、自分の無力さを感じたであろう、絶望のなかで、しかし、ヤイロはここで初めてイエスと真正面に向かいあった。敵対者だと思っていた、けしからん人間だと思っていた、大食いで大酒のみで社会を混乱させる悪い人間だと思っていた、そんなイエスをこの時ヤイロは初めて真正面から見たのではないか。
彼はそれまで敵だと考えていたイエスにひれ伏した。それはとてつもない大きな力だ。本来ならば多くの人の上に立ち、会堂の権威を否定する輩を自分の足元にひれ伏させることはあったかもしれないそんなヤイロが、自らその輩の前にひれ伏し、自分の家に来てくれるようにと願った。娘の事だけを思い、取り乱している父親の姿がそこにある。早くしないと死んでしまう、といういらだちとおそれがある。しかし、イエスに全てをかける信仰がそこにはある。彼の言葉にはイエスならば助けられるという確信さえあるように聞こえる。
それに応えてイエスはヤイロと共に出掛けられた。一分、一秒でも早くといらだっていたであろうヤイロの気持ちとは裏腹にイエスの歩みを群衆は鈍らせてしまう。大勢の群衆が押し迫りイエスの歩みははかどらない。そしてとうとう12年間も出血の止まらない女との出会いによってイエスの足は完全に止まってしまう。
ヤイロの気持ちはどれほど苛立ったであろうか。そこで誰が触ろうとどうでもいいではないか、と思わなかったのだろうか。きっとそう思ったにちがいないと想像する。早くしてくれ、一刻も早く家に連れて行きたい、なのにこの群衆達はなんなのか。今一番イエスを必要としているのは私であるという思うがあったのだろう。いらいらはそうとう限界に近づいていたのではないか。そして追い打ちをかけるようにそこへ家からの遣いがやってきて娘の死を知らせる。
恐らくヤイロはいろんな反対を押し切ってイエスのもとへやってきたのではないだろうか。それは自分の仲間や、あるいは親戚、家族の反対もあったかもしれない。イエスのところへ来ることによってその後の社会的立場は完全に悪くなるということももちろん分かっていただろう。しかしそれも承知でやってきた。なのに、なのに娘は死んでしまった。
娘の死を聞いたヤイロはきっとその場にうずくまってしまったか、あるいは気を失って倒れてしまったかもしれない。ヤイロには絶望しか残されていなかったに違いない。
そのヤイロに向かってイエスは語りかける。「恐れることはない。ただ信じなさい。」
絶望しかない人間に向かってイエスは告げる。「恐れることはない、ただ信じなさい」
このヤイロに対して周りの者の思いはどんなだっただろうか。
会堂長、また会堂の仲間たちはヤイロがイエスのもとへ行くと知った時どうしたであろうか。あんな奴に頼ることは会堂への裏切り、神を冒涜することだ、と言ったに違いない。家族の者も或いは同じように言ったかもしれない。娘が死にかかっているのに、じっと見守ってやってこそ親だろう、と言ったのではないか。そしてまた自分の家にイエスを招くことなど、だれも承知しなかったかもしれない。ヤイロがイエスを呼んできてくれと言っても誰もそのことを聞くものはいなくて、仕方なくヤイロ自身がやってきた、とも考えられる。
娘の死を知らせに来た人々が「この上、先生を煩わすことはありません」と言った。これはいかにも謙遜しているような言葉だが、本心は、これでイエスを家に近づけなくてすんだ、という安堵の気持ちのこもった声かもしれない。この娘が死んだことは悲しい、しかしイエスを家に入れる前だったのは不幸中の幸いだった、といった気持ちもあったのかもしれない。イエスを家になどいれては世間様に顔向けできない、これで会堂長の面目もかろうじて保つこともできると思ったかも。放っておいてはヤイロがイエスを連れてきてしまう。早くヤイロをイエスから引き離そうとして家の人たちは急いでやってきたのかも。
しかしイエスはそんな言葉を聞き流した。そしてただ「恐れることはない、ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」とだけ言った。イエスにはまわりの者の騒音は聞こえず、面子を捨てて自分にすがってくるヤイロしか目に入らないようだ。
ヤイロの家では人々が大声で泣いたり叫んだりしてさわいでいた。葬式の時には泣き女を雇って泣いてもらうということもあったようだ。イエスがやってきた時にはことさら大きな声だったのではないか。「お前が来てももう遅いんだ、お前は何もできはしなかった。もう何もできないんだ」という代わりに、あてつけに大声で泣いたのかも。またヤイロに対してはこんな男を頼りにするなんて、なんて馬鹿なことをしたもんだ、それ見たことか、娘の死に目にも立ち会えなくなってしまって、どういうつもりだ、という非難を込めていたのではないか。
イエスはここで初めてヤイロの家の者に向かって口を開く。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
人々はあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と言われた。すると少女はすぐに起き上がた。
イエスの呼びかけによって、イエスの声によって、イエスの言葉によって死は打ち破られた。少女はイエスのわざによって新たな生涯を歩みはじめた。
イエスの助けを求めるために全てを捨てたヤイロはよみがえりの証人となった。彼らは娘のよみがえりを見、非常に驚いた。イエスのわざに接し、不安は驚きに代わり、恐れは喜びに変わる。
イエスはこの事を誰にも知らすなと命じ、また少女に食物を与えるようにとも言われた。娘のよみがえりに我を忘れている両親の興奮を鎮め、その家族を日常の生活の中へ戻された。
死は本来絶望以外の何物でもない。人はしかし死を自分のこととしては真剣にとらえようとはしない。「人は、自分以外のものは必ず死ぬと思っている」という言葉があるそうだが、自分の死を現実のこととして考えている人はほとんどいない。なんとかその死から自分を遠ざけ、その不安を恐怖から自分が死に向かい合わないようにと努める。
しかしいくらこちらがさけようとしても、死は必ずやってくる。そして身近な死に対して人間は泣き叫ぶしかないのかもしれない。しかし、そんな私たちにも「恐れるな、ただ信じなさい」と言われる。
死んでいたものが生き返ったから、死なないですんだから恐れるな、というのではない。とにかく生きることがすべて、というわけではない。人間はいつかは死ぬのだ。この少女ももちろん死んだのだ。人間を死なないように、あるいは死ぬような病気を治して死から遠ざけること、それが一番大事なことではないだろう。死をも支配している神がここにいること、死をもそして生きることをも支配しているそんな神がそこにいる、イエスがその神だ、だから私たちはイエスを信じている。そのイエスが恐れるな、と言われたのだ。
人間にはどうしようもできない死をもイエスは支配しているから。だからこんなことが言える。
信仰とは人間がどれほど強くなれるか、どれほど立派になるかではない。信仰とは自分が何もできない無力な者であることを知ること。死に対して何も手を打つことができない、そんな無力なものであることを知ること。ただイエスに縋るしかない、とイエスに可能性を見いだすこと。それが私たちの信仰。死を前にして「恐れるな」といわれるイエスを見上げることそれが私たちの信仰だ。
ここにもうひとりすっかり失望していたであろう人がいる。
12年間出血の止まらない女。慢性の子宮出血だろう。律法では汚れた者。
彼女にふれた者も汚れる。だから宗教行事に参加できない。社会からも除外される。
病気の苦しみと疎外される苦しみの二つの苦しみの見舞われている女。
どれほどひどい状態だったか、どれほど苦しんだか。当時病気は悪魔、悪霊の働きと考えられていた。呪文、まじないによる悪魔払いが治療。きっと考えられるあらゆることをしてもすべての手段が無効に終わったのだろう。
次から次へと医者にかかっても治らないことで人間不信となる。財産も減っていく。しかし苦しみは全然なくならない、多くなる。それでも「今度こそは」という思いはますます強くなっていったのだろう。期待しては裏切られの12年間だったに違いない。期待するほど失望も大きい。そうなるとだんだんと期待しないようになってしまう。
その彼女がイエスのもとへやってきた。どんな気持ちだったのか。イエスのうわさを聞いた彼女はどう思ったか。今度こそ、いや、でもあまり期待しないほうが、いや、この人はきっと今までとは違う、そんないろんな思いがあっただろう。
彼女は後ろからイエスを追いかける。そして後ろからイエスの服に触れた。後ろからイエスの服に触った。それしかできなかった。目の前に立って「治して下さい」と言うこともできなかった。
その瞬間病気は癒された。イエスは自分から力が出ていったことを直感した。彼女はイエスの力によっていやされた。イエスはそれで終わらせなかった。彼女をうしろにたたせたままにはしなかった。イエスは病気をいやす力をふりまいてそれでよしとはしない。イエスはひとりひとりとの個人的な出会いを求めているのではないか。その人の痛み、苦しみ、悲しみを共感しようとされる。イエスは人格的な出会いを求めている。
彼女はおそれおののいて進み出てくる。彼女はいやしだけを求めていた。そしてイエスからだれが触ったかと聞かれて恐れおののいた。そして震えながら進み出てひれ伏した。彼女はいやされればそれでよいと思っていたに違いない。それ以上のことは何も考えてはいなかったのだろう。イエスと話すこと、イエスと出会うことなど全然考えていなかったに違いない。
しかしイエスは出会いを第一に求めているようだ。癒すことよりも出会うことの方を大事にしているように見れる。
イエスは彼女に話しかける。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」あなたの信仰があなたを救った、とイエスは言う。彼女の信仰とはなんだったのか。イエスが認めた信仰とはどんな信仰だったのか。服にでもふれればいやしていただける、という信仰。確かにイエスの力を認めている、しかしいまでいう御利益といった感じがする。それに服にさわれば、なんて、こっそりうまいことをしようとするなんて、本当の信仰があれば面と向かって治してくれ、というべきではないか、と思う。あまり模範的な信仰ではないような、あるいはそんなのは信仰ではないと言われそうなそんな信仰だ。
しかしその信仰をイエスは認めている。とても信仰といえないようなひとかけらの思いをイエスは信仰と認めている。あるいは誤った信仰とさえいえそうな信仰をイエスは認めている。そしてイエスはその人と出会っていく。イエスとの出会いによって正しい信仰へと導いているのかも。イエスとの出会いこそ信仰のすべて、というべきかも。イエスとの出会いから信仰は始まる。イエスとの出会いなしに信仰はない。イエスと出会う前にどんな信仰があるかが問題ではなく、イエスとどう出会うかが問題。イエスと正面から出会うことが信仰なのだ。イエスと離れては信仰はありえないように思う。信じようとする心がどれほど強くても、イエスと出会わなければそれはキリスト教の信仰ではないだろう。だからイエスは女との出会いを求めたのではないか。そして出会いとはイエスの言葉を聞くということだ。顔と顔を合わすことが出会いであるが、むしろそれよりも言葉を聞くこと、言葉を交わすこと、それこそが出会いなのだろう。
この女との出会いはヤイロの家へ向かう途中に起こった。一刻を争っている最中に起こった出来事だった。女の病気を癒すことだけが大事なら、イエスは女と話をすることもなかっただろう。しかしこんな時でもあえて女との出会いを求めている、それは人の命にも等しく大事なことだからということだろう。
ある牧師が「私は仕事がいつも妨げられると言って、全生涯不平を言いつづけてきました。そしてようやく分かったのです。私が妨げられるということは私の仕事であることを。」
イエスはいつも妨げられてきた。しかしイエスは妨げる者を受け入れる。絶望的な思いで求めてくるものに、場所も時もわきまえないでやってくる者、時をわきまえる余裕すらない者たち、そんな者たちを受け入れる。そんな者たちのためにイエスは来られた。そんな者たちに出会うために、そして仕えるために来られた。イエスは何かを成し遂げるためにきたのではなく、出会うためにきたようだ。
病気の女はイエスに近づいていった。多くの苦しむものがイエスに近づき出会った。しかし、実はイエスの方から来られたからの出会いだった。イエスに触れるために、イエスを一目見るための近づいていった。しかしイエスは私たちの期待している以上の出会いを求めている。そのためにイエスの方から近づいて来られる。イエスが近づいてくれたからこそ、出会いが起こる。そこで「恐ろしくなり、震えながら」主のみ前に出る。それが礼拝でないか。
人は絶望し失望する。しかしその向こうにもイエスはいてくれる。失望の彼方にもイエスはいてくれる。私たちはひとりぼっちで失望することはない、そこにイエスがいるからだ。そして新たな希望を与えられる。