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礼拝メッセージより
説教題:「誰のもの」 2000年3月26日 聖書:ハガイ書2章1-9節
神殿を建てる
ハガイから聞いた神の言葉に奮い立たされた民は神殿を建てることになった。しかしそれはそう簡単なことではなかった。自分たちの家もそんなに余裕があるわけでもなかっただろう、しかしその中でせいいっぱいをささげて建てていったことだろう。しかしそれでもかつてのような立派な荘厳な神殿を建てることはできなかったようだ。
嘆き
かつての神殿を知っている者たちがそこには何人か居たようだ。ハガイ自身も知っていたのかもしれない。かつての豪華な立派な神殿を知っている者たちにとっては、この再建されつつある神殿はいかにもみすぼらしい、ちゃちなものだったのかもしれない。こんなもの神殿ではない、と思うような者も居たのだろう。まさに「無に等しい」ような代物に見えたのだろう。こんなものではだめだ、こんなつまらないものでは神殿ではない、もっと豪華に、もっと立派にしなくては、ここは金箔にしなくては、とかなんとかいちいちいちゃもんをつけていたのだろうか。もし再建している側からつぎつぎと文句を言われたらたまったものではないだろう。ここは本当はもっときれいなものだった、ここは本当はもっと立派なもので作るべきだ、なんていうふうに、やることなすこといちいち言われていたらやる気などなくなってしまう。あるいはそういう雰囲気になっていたのかもしれない。
共にいる
しかしハガイは民に向かって「勇気を出せ」という神の言葉を繰り返し告げる。そして「私があなたがたと共にいる」とも。
かつての神殿の見事さを知っている者たちが、昔通りの神殿を期待するのも無理はない。是非そうして欲しいという気持ちは強いものがあったのだろう。立派な神殿を再建することで、また立派な強い国を取り戻すことが出来るという思いもあったのかもしれない。立派な神殿で捧げるいけにえこそ意味がある、それこそ神に喜ばれる献げ物だという気持ちにもなるような気がする。
しかし神殿の立派さに目を奪われることで、そこで神を見失ってしまうとしたらそれはおかしなことだ。神殿は神と民との関係を持つところだ。本来はそのための場所なわけだ。本当は神殿がどれほど立派な、どれほどきれいか、は大した問題ではないはずだ。神との関係を持つところだからこそ立派にしたいという気持ちも分かる、しかし立派でなければならない訳ではないはずだ。立派でなければ神との関係を持つことができないわけではない。
かつては立派だったかもしれないが、またかつてと同じく立派にしないといけないかどうかは別問題だ。問題はそこで神との関係を持てるかどうかなはずだ。
神がそこにいるかどうか、それこそが一番の問題だ。建物の見かけがどうか、あるいは人々の見かけがどうか、そんなことよりも神がそこにいるかどうか、それこそが一番大事な問題だ。
かつての立派な神殿ができないことに落胆し失望しそうな民に対して、神は「私はお前たちと共にいる」といい、また「わたしの霊はお前たちの中にとどまっている」という。それこそが神殿にとって一番大事なことであり、それさえあればそこはもうすでに立派な神殿と言えるのだろう。その一番の約束を神は人々に語りかける。
神が共に
神は、わたしはお前たちと共にいる、と約束されたが、しかしそれは民が神にふさわしい立派な神殿を建てる予定があるからではない。彼ら自身がとても信仰深く敬虔だからでもない。ただ彼らが神を見上げているからだ。神殿を建てよ、という神の言葉を聞いてそれを実行しているからだ。自分たちの家が大変な時でも神との関係を大事にしようとしているからだ。
神の栄光にふさわしい神殿を建てたならばそこに神がやってくる、というのではない。そもそもすべては神のものなのだ。銀も金もすべての財宝も神のものなのだ。人がいろんな財宝を神殿に蓄え、居心地のいい神殿を建てれば神がそこに来てくれるというものではない。神自身が財宝をもたらすという。神自身が神殿を栄光で満たす、という。
みすばらしい神殿だという思いを持っていたであろう、かつての神殿を知っている人たち、彼らは自分たちに財宝を集まる力もお金もないことを嘆いていたのだろう。そんな神殿では駄目だと思っていたのだろう。栄光ある神の住まいではないと思っていたのだろう。しかし神は自分がその財宝も栄光も満たすという。神は人が作ったみすぼらしい不完全な神殿を栄光で満たし、そこで人々と会う、と言うのだ。
不完全
教会も不完全なものだ。私たちの建てる建物も、私たちのやっていることも、私たちの捧げるものもみんな不完全なものだ。しかしその不完全なものを神は栄光で満たすと言われているような気がする。あまりの不完全さに自信をなくし、もうやめてしまいたいと思うようなこともある。こんなことしても何もならない、こんな自分では何の役にも立たないと思う。しかし神は、私たちの差し出すそんな不完全なものを栄光で満たすのではないか。
神は新しい神殿は昔の神殿にまさる、と言う。しかし実際目に見えるところでは全くひけを取っている。無に等しいような神殿であったのだ。かつての神殿とは比べものにならないみすぼらしい、足りないところがいっぱいある神殿だったのだろう。しかしその神殿を神は昔の神殿にまさる、と言うのだ。なぜ神はそんなふうに言うのだろうか。
せいいっぱい
かつて自分たちの生活に汲々としていた人たちが一所懸命に捧げたことでできた神殿であったからであろうか。自分たちが捧げたものでできた自分たちの神殿だったからだろうか。そんな気がする。銀も金もわたしのものだ、すべてのものは私のものだ、と神は言う。それを神殿に集めるのも私のすることだ、という。すべては神のもので、神の管理の元にあるということだ。この時の人々はその言葉を聞き、その言葉を信じ、そして自分たちが精一杯ささげることでそのことを知っていったのだろう。捧げることですべてを所有し全てを支配しておられる神との関係が確かなものとなっていったのではないか。神との堅いきずなが出来てきたのではないか。だからこそこの神殿はかつての神殿にまさる、のではないか。
どこかの牧師が言っていた、献金することはささげることは恵みなのだ、と思う。献金したらその替わりの恵みが降ってくるというよりも、ささげること自体がもう恵みなのだと思う。
献金
最近読んだ本によると、アメリカでは企業も多くの寄付をするそうだ。利益の5%を寄付するところもかなりあるそうだ。それは基本的には教会での献金の習慣があるせいだということらしい。そして企業の寄付にも、聖書にある隣人を愛する、という気持ちが込められていることらしい。アメリカ人の多くは、子どもの時から教会学校で特に困っている人のために献金するということが身に付いているのだそうだ。
日本の企業には寄付をするという習慣があまりない。そのためにアメリカに進出した企業が寄付を申し込まれて断る、そこで日本人はエコノミックアニマルだとか言われてきたそうだ。
日本の企業が寄付に積極的でないのは、やはり宗教的なことが関係しているという。日本人の多くは神社でおさいせんを投げて願い事をする。つまり自分の願い事をかなえて貰うためにお賽銭を出す。日本人にはそのお賽銭という習慣しかないというのだ。つまり自分のためには出すが、人のために、誰かのためにお金を出す、という習慣が日本にはない。だから日本の企業も寄付をするという考えがなかった、というのだ。
その本によれば、日本では教会でもやはりそのお賽銭という感覚があって、できるだけ献金するという習慣がない、と言う。
またその本の中にこんなことが書いてあった、
『アメリカの教会ではまず聞かれませんが、日本の教会ではほとんど必ず言われる献金の祈りの時の言葉があります。この○○教会でも日本人の場合だけに聞かれる次のような言葉です。「この献金はほんのわずかですが・・・」。これは自分のことは控え目に言うという、日本的な謙譲の言葉でしょうか。それとも、ありあまっているもののなかから本当に少ない額だからでしょうか。その後ろめたさからでた言葉でしょうか。それとも、・・・額は少ないけれども、持てるもののほとんどみな、といった・・・献金なのでしょうか。・・・・・・最後に、申し上げたいことは、わたしたちの献金は、神の恵みに対する感謝の表現だということです。そのことを象徴的に示しているのが、Thanksgivingという英語の言葉です。これは神に感謝を捧げるThanks-givingということから「感謝の祈りを捧げる」という、献金の祈りの意味で用いられています。しかし、ここで注目していただきたいのは「感謝」と「与える」ということが一つの言葉になっている点です。神に「感謝」するものは、同時にほかの人々に「与える」ものになる、ということをよく表している言葉だからです。』(『日本伝道論』古屋安雄、教分館)
主の家を建てよ
私たちの教会もみすぼらしい教会かもしれない。人数も少ない、組織もしっかりしていない、財政的にも厳しい、見るからにみすぼらしい教会なのだろう。しかし一番の問題は神がここにいるかどうかだ。ここで神と出会っているかどうかだ。神の栄光が満ちているかどうかだ。神自身が栄光を満たすことを知っているかどうか、それを信じているかどうかだ。神はすべてのものを支配しておられる方だ。銀も金もなにもかもだ。そして必要なものはすべて与えてくださる方だ。その事を私たちが信じているのか知っているのか、そしてその神の声に聞いているかどうかだ。私たちの教会が立派な教会かどうか、それはその神と共に生きているかどうかだろう。会堂が立派か人数が多いか組織がしっかりしているかどうかというよりもまずは神が共におられることを私たちが知っているかどうかだ。
神の偉大さを私たちはどれほど知っているのだろか。神が世界を支配している方であることをどれほど知っているのだろうか。その神に愛され守られていることをどれほど感謝しているのだろうか。その神と共にいることをどれほど喜んでいるのだろうか。
先の牧師が言ったように献金することは恵みなのだ、とすると、献金をわずかにするということは、恵みを自分でわずかなものにしてしまっているということになる。献金は願い事のためのお賽銭ではなく神への感謝であり、同時に誰かのために捧げるものなのだ。献金するということはただお金を出すだけではなく、そのことで誰かと共に生きることであり、また神と共に生きるということでもあるのだろう。だからこそ献金することは恵みなのだと思う。
銀も金もすべてを持っている支配しているこの神が私たちと共にいる、と言われる。必要なものは私が準備すると言われる。だから安心して希望を持って神と共に生きていこう。神の声に聞いて生きていこう。そして神に栄光を満たしてもらう教会を建てていこう。