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礼拝メッセージより
説教題:「裏切り者と共に」 2000年4月2日 聖書:ルカによる福音書22章14-30節
最後の晩餐
過ぎ越しの時の食事の出来事。過ぎ越しはかつての出エジプトを記念するお祭り。神が奇跡を起こしてユダヤじんたちをエジプトから救い出してくれたことを記念するお祭り。そしてこのような祭りを通してそのことを代々語り伝えていった。
食事
イエスが食事をしたことがたびたび福音書の中に出てくる。イエスは徴税人や罪人とされる者たちと共に食卓につかれている。社会からのけ者にされている者たちと共に食事をしている。神にとって、神の国にとっていかにもふさわしくないと思えるような者たちと共に食事をするのだ。イエスの周りにはいつもそのような者たちがいた。というよりもイエスがそのような者たちを受け入れていたということなのだろう。きっと私たちの周りにも社会からのけ者にされているような、嫌われているような人たちが大勢いるのだろう。教会の周りにもきっと大勢いるに違いないと思う。でもどれほど私たちがその人達を受け入れているのだろうか。教会にはそんな人たちが大勢いるのだろうか。教会にそのような者たちがいないということは、ただ教会にそのような者たちの座る椅子を私たちが用意していないだけなのかもしれない。
私たちは教会に来る者を選り好みしているのかもしれない。先日ある人が、教会では私のような者が来ることをいやがっている、だから来ない、という人がいた。自分のような社会的には一人前でない、常識のない、ろくでなしが来ることを教会の人は迷惑がっている、と言うのだ。もちろんその人が面と向かって言われたわけではないそうだが、態度を見ていれば分かる、だから日曜日には来ないと言っていた。
ただその人の思い過ごしなのだろうか。それともその通りなのだろうか。私たちは外から教会へ来る誰のことをも喜んでいるのだろうか。地位も名誉もある人、あるいはなにかすごい特技を持っている、教会の役に立ちそうな人が教会に来ることを喜び、それが何もない、いかにもみすぼらしい、話しもおかしな人のことを喜んでいるだろうか。その人達を暖かく迎えようとしているのだろうか、迎えたいと思っているのだろうか。かなり選り好みしているような気がする。私たちは私たちの眼鏡にかなう人のことは喜び、そうでない人のことはあまり喜ばない、ほとんど関心もないなんてことになってしまっていないだろうか。それとも私たちの教会は立派な常識のある者だけのものなのだろうか。
イエスの周りには立派な常識人だけがいたのではなかった。立派な信仰者ばかりではなかった。むしろそうでない者たちばかりといった状況だった。失格者ばかりだった。そしてそんな者とイエスはいつも共にいて共に食事をしていた。
パンと杯
イエスはパンを取り感謝の祈りを唱えて、これはあなたがたのために与えらるわたしの体であるという。そして杯は、これはあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である、という。
元来過ぎ越し祭は、アビブの月(捕囚後の暦法ではニサン)の1日に一歳の雄の小羊を選び,14日の晩にそれをほふり,その血を入口の柱と鴨居に塗り,肉は焼肉にし,過越の小羊として食べた。その翌日15日から1週間を「除酵祭」として、つまり種をいれないパンを食べる祭りとして守ったという祭りだった。種入れぬパンは急いでエジプトから出たときパン種を入れる時間がなかったことから、先祖の苦労を象徴しているものだったそうだ。神がエジプトから自分たちの祖先を救い出してくれたことを記念するという祭りだった。
イエスはこの食事の時に自分のことを説明した。つまりイエスは自らの体と血とを犠牲とすることで神と人との新しい関係が生まれるということだ。弟子達のため、そしてすべての者のためにイエスは自分の体と血をささげる、というのだ。そのことによって私たちはすべての罪を赦されるというのだ。そこで私たちは神から罪を指摘され罰せられるということではなく、神から愛されるという新しい関係に生きることが出来るようにされたのだ。
裏切り者
イエスは最後の晩餐を弟子達と共にした。しかしこのイエスの弟子の中にも裏切り者がいたというのだ。イエスを金で売ったユダがいた。彼もこの最後の晩餐の席にいる。イエスと最後の食事をしている。しかし裏切り者はユダだけではなかった.。十字架を前にして弟子たちは誰もがイエスを見捨てて逃げてしまった。そういう点では弟子たちみんなが裏切り者だった。
そんな裏切り者をイエスは弟子としていた。そして最後まで一緒にいた。最後の食事まで一緒にいた。そんな弟子たちであったが、イエスはその弟子たちを捨てない。ずっと一緒にいる。でこまでも。
身のほど知らず
弟子たちは、われこそはどこまでも先生についていく、ということを勇ましく語った者もいた。晩餐のあとにまた誰が一番偉いかといことで議論が起こったという。
自分がどれほどすぐれているか。どれほど立派であるか、どれほど偉いか、正しいかということを争っていた。どれほど優れたものを自分が持っているかということを見せびらかし、そして相手の持っているものと自分の持っているものとを比べてばかりいるようだ。自分の持ち物を一生懸命に比較して競争している。そこには自分の正しさを誇りとするような面がある。そしてその自分の正しさこそが一番大事なものとなっているような気がする。自分が正しくないことには何も始まらないというような面があるのではないか。そして正しいから自分は人よりも優れている、人より正しいから自分は人よりも上にいる、という思いがある。
私たちととても似ている。自分の正しさ、自分の立派さを求めて、そしてそれを自慢する思いがある。そしてそれを人と比較する。自分のほうが正しいんだから、自分の方が尊敬されるべきだ、自分の方が正しいから自分の方が威張っていいんだと思う。間違っているあいつら、駄目なあいつらの方が苦労して、貧乏であって当たり前だ、大変な思いをして当然だ、と思う。偉い者こそ威張ることができる、だからなんとか偉くなりたい、そう思う。そしてそれが社会の常識でもある。
しかしイエスは、一番偉い人は、一番若い人のようになり、上に立つ人は、仕える人になりなさい、という。
20世紀は戦争の世紀だと言われる。力を持ち、権力を振るい、相手を支配し、何でも自分のものにしてしまおうとしていた時代だったように思う。力を持ち威張ろうとするところに争いが生まれる。争うところには喜びも平安もない。
支配する者と支配される者という関係ではなく、仕える者と仕えられる者という関係に生きるようにとイエスは言われる。力があり偉い者こそが仕える者となれ、という。そこに暖かい人間関係が生まれる。
そしてそれは何よりイエスが私たちと持とうとされている関係である。イエスは私たちのために自分の命をも与えられた。自分をすべて与えて私たちを生かそうとされた。そういうふうにして私たちと関わっておられる。イエス自らがそうやって私たちに仕えてくださった。まるで社会の常識とは反対のことがらだろう。しかし教会こそそのイエスの言葉に聞いていかねばと思う。
裏切り者と
そのイエスと共に過ごしながら弟子達はイエスを裏切ってしまった。いつもいつもイエスの言葉を聞いていた者たちであった彼らが真っ先にイエスを裏切ってしまった。しかしその彼らのためにもイエスは血を流された。イエスを金で売り、あるいはいつまでも誰が偉いかと議論している者たちのためにイエスは死なれた。自分たちの罪深さや駄目さに気付きもしない者がイエスのまわりにはたくさんした。しかしその者たちのためにもイエスは死なれた。
だからこそ私たちにも仕えなさいと言われているのだろう。仕え合い愛し合うことをイエスは勧められている。それは命令や掟ではなく、守らなければ罰せられるから守るということではなく、それこそが私たちにふさわしい生き方だからそうしなさいということなのだろう。仕え合い赦し合い愛し合うところに喜びがあるからだろう。そんな暖かい関係を持って生きることこそが私たちにとって一番の喜びなのだと思う。自分がどれほどの正しさや立派さを持ったとしてもえられない喜びをそこで持つことができるからだろう。
自分が正しさを持つことばかりを目指すと、逆に誰かを責め裁き糾弾することがある。間違っている者のことを配慮することもなくなる。誰が一番正しいか、誰が一番偉いかということになる。しかしいくら人を責めたところで、そんな自分の虚栄心をくすぐったところでそんなのは大した喜びとはならない。そして責められた方も憎らしく思うのが関の山だ。
そんな自分の正しさや立派さを求めるのではなく、仕えるところに、一番の大きな喜びがあると思う。喜びはそんな関係の中に生まれる。人と人との関係、そして神と人との関係を持つこと、愛し合う関係、いたわりあう関係の中に喜びが生まれる。
私たちのためにもイエスは死んでくださった。だからイエスの死によって赦された者同士として、イエスに愛されている者同士として、私たちも愛し合い、いわたり合って生きたいと思う。イエスはそういうふうに生きることを勧めている。そんな教会となりたいと思う。