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礼拝メッセージより
説教題:「主の家」 2000年3月19日 聖書:ハガイ書1章1-15節
8月29日
ダレイオス王の第2年6月1日。これはバビロニアの太陰暦の日付。太陽暦で言うと、紀元前520年8月29日になるそうだ。8月29日は誰かの誕生日。この日に主の言葉がハガイを通して、ユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに臨んだ。
紀元前587年にエルサレムの都はバビロン軍によって神殿もろとも破壊された。そして指導者達の多くがバビロニアに補囚されてしまった。その中にはゼルバベルとヨシュアの祖父達も含まれていた。
しかしバビロニアを破ったペルシャの王キュロスの勅令によって補囚されていたユダヤ人の多くはユダに帰ってきた。そしてゼルバベルとヨシュアも帰ってきた。しかし破壊された神殿の再建はいろんな邪魔があったりしてなかなか進まず、しかも干ばつも起きたらしい。次第に神殿を建てるどころか自分たちの生活もまともにできていないような状態になっていったようだった。自分たちの生活をもう少しましにしてからでないと神殿を建てるなんてとてもとても、というところだったらしい。
主の神殿
しかしそんな時にハガイは主の言葉を伝える。「神殿を廃墟のままにしておいて、自分たちがちゃんとした家に住んでいていいのか」と。干ばつや飢饉が起きたのは、おまえ達が自分のことしか考えていないからだ。神殿が荒れ果てているのに、自分の家のことばかりを心配しているからだ、と告げる。
自分の家のことが大変なのにそんなこと出来るわけがない、と思っていたのだろうか。神殿を建て直すという計画はバビロニアから人が帰ってくるようになってすぐに持ち上がったらしい。しかしいろんな邪魔や経済的な問題が起こることでとん挫してしまっていた。そんなことが重なるとしだいにやる気自体が失せてきてしまっていたようだ。
神殿なんかよりも自分の家の方が大事、そっちの方が先だ、ということになっていったのだろう。もうできないよ、もっと余裕ができてからで、ということになったのだろうか。そして出来ないよ、という気持ちがまかり通るようになっていったのだろうか。そして出来ないことが当たり前になってしまったのだろうか。
できない
そんなことできません。私にはできません、という言葉をよく聞く。自分には出来ない、ということで自分の出来ることまで出来なくしてしまっている。自分で自分を駄目にしていることがある。
教会でもそうだ。それはできない、私にはできない、という声が何と多いことか。自分に何が出来るか、自分は何をすればいいか、ということを考える前に、私にはできない、ということが多い。何をするかということを考える前に、もうすでにできないことにしてしまっている。本当は出来ないではなくしたくないということかなと思ったりする。
悪循環
ユダヤ人たちは、自分たちの家のことが忙しい、家のことが大変だから神殿まで手が回らない、と思っていたらしい。しかも干ばつがあり余計に神殿のことなんかやってられないということになったようだ。
しかし神は、干ばつがおこり、収穫が減ったのは、収入が減ったのは、お前達が自分の家のことばかりに夢中になっているからだ、という。神殿のことを放っておいて、自分の家のことばかり、自分のことばかりを考えているから、だから干ばつがおき、収穫が減ってしまったのだ、という。
人々は収入が減ったから神殿のことまでやってられないと言う。しかし神は神殿を建てることを後回しにするから収入もなくなったという。
大事なものを後回しにするから何もかもうまくいかなくなってしまっているのだ、という。一番大事なものが抜けているからすべてが手に入らないのだ、ということだろう。
肝心
「1:6 種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく/飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく/金をかせぐ者がかせいでも/穴のあいた袋に入れるようなものだ。1:7 万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。」
昔聞いた話。ヨーロッパの大女優に一人の娘がいた。大女優は忙しくヨーロッパ中を飛び回っていた。彼女は娘のために娘の誕生日にはいつも贈り物をしていた。それがいつもそばにいてやれない母親のしてのせめてもの償いの気持ちでもあったらしい。ある年、女優はきれいは花瓶を娘の誕生日に贈った。しかしその娘はその花瓶を壁に投げつけて粉々に割ってしまった。「私が欲しいのは花瓶じゃない。お母さんだ。」
ユダヤ人達は一番大事なものを後回しにして、それ以外のものを一所懸命にそろえようとしていたということなのだろう。お母さんではなく、いろんな贈り物をそろえようとしていた。お母さんではなく、いろんなものによって満足しようとしていた。神を放っておいて、それ以外に必要なものを手に入れようとしていた。一番大事な神だけはおいておいて、それ以外のものを一所懸命にそろえようとしていた。そして満足しようとしていた。神を抜きにして自分たちの生活を整えようとしていた。しかしそれでは、「種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく/飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく/金をかせぐ者がかせいでも/穴のあいた袋に入れるようなものだ」と言う。
一番大事なものを放っておいてどうするのか、と神は言っているようだ。だからこそ、「おまえ達は自分の歩む道を心に留めよ」と言うのだ。
おまえにとって大事なものはなんなのか、一番大事にしないといけないものはなんなのか、それをしっかりと考えなさい、ということだろう。自分の生活、自分の家を神よりも大事にする方がいいのか、自分の家を立派に建ててから、それから神のことを考えること、自分の家を立派に建ててから神殿を建てるということでいいのか。そんなふうに神のことを二の次にすること、そういう生き方がいいのかどうか、それを神は問いかけているのではないか。
本当に大事なものは何なのか、一番に大事なものはなんなのか、それを問われているように思う。私にとってはいろんな心配事がある。毎日の食いぶちだって問題だ。我が家の家計も大変だ。しかしそうやって自分のことばかり考えて心配して、神のこと隣人のことを考えなくなっているのではないか、と神は問いかけているのではないか。なかなか思うように行かない、満足できない、喜びもない、平安もない、それは結局は神のことを二の次にしているからではないか、神の言葉を聞くことを後回しにしているからではないか、神の言葉を自分の生きる指針としなくなってしまっているからではないか、本当に大事なものを大事にしていないからではないか、と言われているようだ。
中心
聞いた話によると、アメリカでは町の真ん中に教会が出来て、その回りに町が出来ていくということらしい。また韓国ではどんな田舎に行っても立派な教会が建っているそうだ。その地域で一番立派な建物は教会なのだそうだ。自分の家を立派にきれいにするよりも教会を立派にきれいにするようなことを聞いたことがある。
日本の教会はどうなのか。教会はだいたいいつも後回しになることが多いらしい。教会のことよりもまずは自分の家のことが先に来るらしい。家で要らなくなったものを教会に持ってくるという話を聞く。もちろんそれでもいいと思うけれども、要は自分たちの生きる上での中心がどっちにあるのか、ということだろう。家か教会かというののどっちを取るか、というのは難しいけれども、完全に家が第一で、余裕ができれば教会のことも、ということでいいのだろうか。
韓国の教会が立派なのは、教会が自分の中心、教会こそが自分の家、魂の家なのだという意識があるということの現れではないかと思う。自分の家が立派であるよりも教会が立派である方が安心できるのかもしれない、と思う。そんなふうに自分の中心は教会なのだという意識があるのだと思う。
韓国は日本よりもクリスチャンの割合も多いからということもあるだろうが、しかしそれよりも何よりも教会が大事、神が大事という意識があるからこそ韓国ではクリスチャンが増えていっているのではないかと思う。
神を大事にする、神を中心にする、そんなところに真の喜び、満足があるということだろう。そしてハガイを通してこの時のユダヤ人達に対しても、おまえの中心はどこなのか、何なのか、おまえが満足できないのは中心にするものを間違えているからではないか、と問いかけているのではないか。
変化
ハガイの言葉を聞いたユダヤ人達は、神の言葉を聞いて出ていった、という。彼らは神の言葉によって動かされた。その言葉を真剣に聞いて自分が動いたのだ。
神の言葉は人を動かす言葉でもあると思う。できないできないという人をも動かす言葉だと思う。したくないという人をも動かす言葉だと思う。そして動かすのは、動くことによって喜びを見いだし、満足を見いだすためなのだ。満足できない者に、そこにではなくここに満足がある、だからこっちに来なさい、といわれているようなものなのだろう。満足できないのは間違ったところにいるからだ、間違った方に向かって歩いているからだ、だからこっちに来なさい、こっちに向かって歩みなさい、神はそういわれているのではないか。
動かないものは実は神の言葉を聞いていないのかもしれない。いいお話でした、というだけで、何も変わらないとしたらそれは聞いていないのと同じである。人はなかなか変わりたがらない動物である、しかし変わらなければ動かなければ見えないものがある。すばらしいものを見せようとして、すばらしいことを体験させようとして神は招いておられるのではないか。
自分の家のこと、自分のことが心配だ。心配なことが山のようにある。しかしそこで自分の事ばかりに目を向けることで逆に大事な事が見えなくなってしまうことがある。自分のことばかりをみることで、神を見失い、結局は喜びと平安を見失ってしまうことがある。そうではなく、まずは神のことを大事にし、神の言葉を大事にして生きなさい、神はそう言われているのではないか。
私たちも自分たちのことばかり、自分のことばかりを考えて、神のことを忘れ、神の言葉を聞くことを忘れ、神がいうように隣人のことを愛し配慮することを忘れているのではないか。
不満と文句と愚痴ばかりが出てくるというのは結局はそこが原因なのかもしれない。隣人の事を配慮しいたわることを忘れて、誰も自分を大事にしてくれない、誰かが自分の邪魔をする、というような思いになることがある。そこには喜びも楽しみもない。平安もない。
主の家
主の家を建てよというのは、おまえ達の献金では足りないからもっと献金しろ、と言うことではなく、おまえ達は神をどう思っているのか、神をどれほど大事にしているのか、神の言葉をどれほど聞いているのか、ということを考えてみよ、ということだろう。自分の歩む道をしっかりつ見つめよ、ということだろう。