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礼拝メッセージより
苦難の僕
ペルシャ王キュロスによって、ユダヤ人たちがエルサレムへと帰る道が開かれた。しかし実際にはエルサレムへの帰還は順調には行かなかったそうだ。50年ほどの補囚の間に世代も変わり、バビロン生まれの人も多くなっていただろう。神殿も荒廃したままでこれから作り直すのも大変だし、50年の間にエルサレムに移り住んでいる人達だっている。このまま慣れ親しんだバビロンで暮らした方がいいと言う人たちもいたようだ。
そんな時に第2イザヤが語ったのが今日の苦難の僕と言われる詩だ。この僕とは誰のことなのか、イスラエルのことであるとか、預言者自身の事ではないかとか、ユダヤ人たちをバビロン捕囚から解放したペルシャのキュロス王ではないかといろいろな説があるそうだ。これはキリストのことを予言しているという人もいる。
あるいは第2イザヤは誰なのかを特定はしないけれど、神の言葉を伝える預言者としての苦悩や大変さを踏まえ、民を導き助ける助け主の姿とは実はこういうものだということを語っているのかもしれないという気もしている。
旧約聖書の律法には民の罪のために羊などを犠牲として献げるようにと書かれている。動物が民の身代わりとなって罰を受けることで罪が赦されるという考え方だ。
第2イザヤは自分の預言者として苦しい大変を通して、民を神へと導く指導者は犠牲の羊のようなものだということを言っているではないか、あるいはそうでないと民を救えないということを語っているのではないかという気がしている。
新約聖書にはこの箇所からの引用は多い。
マタイによる福音書には「 8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。 8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。 8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。 8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」
とある。
またペトロの手紙一には、
「 2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。 2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。 2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」 2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」
と書かれている。
新約時代のイエスに従っていた人達はイエスの十字架のむごたらしい死を目の当たりにして悩み苦しんだのだろう。12弟子たちはみんな逃げてしまった。一体何が起こっているのか、イエスはどうして殺されてしまったのかと悩んだに違いないと思う。そんな時にこの第2イザヤの言葉に出会い、まさこの苦難の僕の姿はイエスの姿であると感じたのだろう。彼らはこの苦難の詩からイエスの生き様やイエスの死に様を解釈していったということだろうと思う。
共に苦しむ
イエスは私たちの罪を背負って、私たちの罪の身代わりとして死んでくれた、私たちはイエスの贖いの死によって赦された、イエスの死はそんな贖罪の死だという言い方をよくする。動物を自分の罪のための贖いとして献げる習慣のあるユダヤ人にとっては納得できる考え方かもしれないけれど、理屈はわかる気はするけれどしっくりこないなあと思っている。
ある牧師の説教で、この苦難の僕の詩について贖罪の死ではないとするワイブレイという人の解釈があると書いてあった。それによると、詳しいことはよく分からないけれど5節の「わたしたちの背きのため」「わたしたちの咎のため」というところの「ため」という言葉は、誰かの罪が他の人に移るというような意味であるならば、用いられる言葉は違っているはずだそうだ。
またそもそも旧約聖書では人間の命が罪の献げ物になるという語っているところは他にはどこにもないそうだ。逆にホセア書6:6「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」とあり、マタイによる福音書9:13には「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、言って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とイエスがホセア書を引用してファリサイ派の人びとを諫めたことがあった。
そこでこの苦難の僕は贖罪のため身代わりとして死んだのではなくて、苦しむものとどこまでも共にいることで、共に苦しむことで結果的に死んだのだと解釈しているそうだ。
それだとすごく納得できるなあと思う。そしてそれはまさにイエスの姿を見事に表しているように思う。
苦しみの中に
キリストとはどういう方なのか。救い主はどういう方なのか。神であると思うと漠然と強く立派なイメージを持ってしまう。凛々しく、格好良く、何にも動じないで、罪も間違いもなくて、いつも正しくて、そんな神々しいイメージを持ってしまう。私たちのような下々の人間とは随分違い、こんな私たちのようなだらしない人間には近づきがたいような、話しをするのもはばかれるような、挫折とか失敗とか恐れとか煩いとか、そんなものとは全く無縁な方であるようなそんなイメージを持ってしまう。
私たちは自分の苦しさ、悲しさに押しつぶされそうになっている。病気に苦しみ、いろんな苦難に苦しみ、そして孤独に苦しむ。どうして私だけがこんな病気になってしまうのかと思い、どうして私だけがこんなに辛いことを経験しないといけないのかと思い、どうして誰も私のことを分かってくれないのかと嘆く。
そして神を信じればどんな病気になっても不安になることもなく、どんな辛いことが起こってもそれに立ち向かっていって、誰からも見向きもされなくても悲しむことがないようになるはずである、そうならなければ信じているなんて言えない、そんな風に思っているところがある。
苦しみを乗り越えていくことが立派な信仰者の姿であって、そうやって乗り越えていったところに神が待ってくれている、そうやって乗り越えていく者だけを、神が「お前はよくやった、よく信じた」といって認めてくれる、そして苦しいとか悲しいとか寂しいとかばかり言っている私のような者は神から見放されてしまっているに違いないと思ってしまう。
けれども実はそんな風に、病気や怪我や悩みや寂しさを乗り越えた、そんなものから無縁なところに神がいるわけではない、神は、イエス・キリストはそんなところで私たちを待っていて、早くここまでやってこいと待っているわけではないようだ。
イザヤの告げる苦難の僕は多くの痛みを負い病を知っていたという。イエスも痛みを負い病を知っていた。イエスは私たちが苦難を乗り越えるのを遠くで待っているのではなく、私たちが今病気をし死を恐れている、今苦しい思いをし淋しい思いをしている、ここにいてくれている。悲しみや苦しみを振り払い、乗り越えた先で待っているのではなく、今悲しんでいる、今苦しんでいるここにいてくれている。ずっとここにいてくれる、そして誰よりも私たちのその悲しみや苦しみを分かってくれている。一緒に苦しんでくれている。
神を信じているといっても依然として病気をすることもある、いろんな災いにあうこともある、いろんな苦しいことはある、けれどもそれが人生でもあると思う。いろんなことがあるのが人生だ。神を信じていれば何でも自分の思うように、自分の願い通りになるというわけではない。
イエス・キリストはその私たちの辛い苦しい人生を共にしてくれているのだと思う。辛さ、苦しさを共に味わってくれているのだと思う。
傷によって
「 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:5)
苦しむ時も、悲しむ時も、行き詰まる時も、そして絶望する時もイエス・キリストは共にいてくれる。傷を受けている、傷んでいるイエス・キリストが共にいてくれているということなんだろう。共に苦しみ、共に泣いている、そんなイエス・キリストがいてくれているのだろう。イエス・キリストはそのように、自分も痛み苦しみつつ、私たちを憐れみ愛してくれているのだ。
イエス・キリストは、私たちの痛みや苦しみや悲しみ、また嘆きや失望やあきらめ、まさにその真ん中にいてくれているのだろう。
だから私たちはどんな時でも、どんなになってもひとりぼっちではない、ひとりぼっちになることはない。