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礼拝メッセージより
神
昔の戦争は神と神との戦いでもあると考えられていたそうだ。勝った方の国の神が強い神ということだったらしい。そして負けた方の国の神は焼かれたり、神殿から引きずり下ろされて勝った国が持ち去ったそうだ。
ここに出てくる「ベル」とか「ネボ」はバビロンにあった神の像だったそうだ。ペルシャ軍がやってくるという噂が飛び交ったとき、バビロンの人達は神殿から神の像を運び出して避難させようとした。けれども重すぎて、車を引く獣たちも倒れ、神の像も倒れたそうだ。
バビロンの神はそんな風に倒れてしまう神であり、逆に重荷になってしまう神だ、と言っているようだ。
しかしイスラエルの神はそんな神ではないという。そういう神とは全く違うという。人間に背負われて世話にならないといけない神ではない、反対に私たち人間の方が生まれた時から神に背負われ担われてきたそんな神だ。そしてその神は私たちが年老いて白髪になるまで背負っていこうと言う、そういう神だとイザヤ書は告げている。
背負われて
「あしあと」という詩がある。アメリカのマーガレット・F・パワーズという女性の作った footprintsという詩だ。
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
イザヤは、私たちは産まれてから年老いるまで私たちはいつも背負われていると言ってるようだ。
背負われていると顔が見えないなあ、なんて思った。私たちは神を見ることはできない。見えないけれど背負われているんだと言われているようだ。背負われているから見えないんだということなのかもしれない。
見えないかもしれないけれど、感じないかもしれないけれど、私たちはもう既に神に背負われているんだとイザヤは告げている。すでに背負われているなら、背負ってくれと、見捨てないでくれと騒ぐ必要もない。
またどっちに行けばいいのかと悩む必要もないということになる。じっと背負われていれば神が行くべきところへ運んでくれるということになる。
ここをああしてくれこうしてくれと一つ一つお願いしないといけないわけではないということだ。必死に祈らないと振り向いてくれないというようなことではないということだ。
私たちがすべきことは背負われていることを認める事、そして静かに安心して背負われていることだろう。
しかし神が背負ってくれているなら、どうしてこんな苦しい目に遭うのか、大変な目に遭わせるのかと思わなくもない。というよりよく思う。
どうしてなのかはよく分からない。試練なのだろうか。私たちを鍛えるためなんだろうか。そうかもしれない、けれどもやっぱりよく分からない。
でもどんな時でも神は私たちを背負ってくれていると聖書は告げているようだ。決してひとりぼっちにはしない、決して離れたりはしない、どれだけ失敗しようと、どれだけ挫折しようと、どれだけ惨めになろうと、どれだけ弱くなろうと、決してあなたと離れはしない、いつもあなたを背負っていく、そんな意志というけ決意を、神はイザヤを通して私たちにも語りかけているようだ。
実際に手で触れたらいいのにと思うけれどそうはいかない。でも私たちは心でこの神の背中に触れていきたいと思う。そして安心して背負われて生きたいと思う。