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礼拝メッセージより
キュロス
ユダヤ人たちがバビロンに補囚されてすでに40年ほどになっていた。ユダヤ人としての誇りも自信もすっかりなくしてしまっていた頃なんじゃないかと思うけれど、しかし時代も動き世の中も動いていたようだ。そして第2イザヤと呼ばれる預言者が立てられ、慰めよ新しい時代がやってくる、あなたたちはもうすぐ解放される、そんな神の言葉を伝える。
イザヤ書41章1-4節
「島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう。東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き/国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。この人の剣は彼らを塵のように/弓は彼らをわらのように散らす。彼は敵を追い、安全に道を進み/彼の足をとどめるものはない。この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの/初めであり、後の代と共にいるもの。」
また41章25節では
「わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように/彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる。」
と暗に仄めかされてきた人物が、今日の箇所でペルシャ王のキュロスであると名指しされている。しかも45章1節では、「主が油を注がれた人」という言い方をしている。主が油を注がれた人とは旧約聖書ではマーシーアハという言葉だそうで、それが新約聖書ではメシアースと訳されてキリストのことを指す言葉となった。しかし今日の所では主が任命した王というような意味のようだ。
解放
王が民を解放し、エルサレムは帰還すること、廃墟となっているユダの町が再建されるという神の言葉を第2イザヤは告げる。
そしてそのために神が立てた王がペルシャのキュロスであるというのだ。神がペルシャ王を遣わしてユダヤ人たちを解放させる、これも神の計画なのだ、キュロスの背後に神がいて、全部神の差し金なのだということのようだ。
ちょっと調べただけだけれど、キュロス王は元々はアンシャンという小さな国の王だったそうだ。アンシャンはメディアという国に従属していて、メディアの王はキュロスの祖父だった。しかしアンシャンは外交政策における意見の相違から決別しメディアに反旗を翻して、キュロスは祖父を生け捕りにした。日本の戦国時代でもそうだけれど、当時は親子でも殺し合うような時代だったけれども、キュロスは祖父を手厚くもてなしたそうだ。
後にキュロスがバビロニアを攻めた時には、当時のバビロニア王は民衆の信頼を失っていて、城門も自然に開いてキュロスは無血入城した。キュロスはバビロニア王を捕虜としたけれども王として扱って、死んだ時には盛大に国葬をしたそうだ。
バビロンに補囚されていたさまざまな民を解放し、各地の神殿から持ち帰っていた宝物もそれぞれの地に返したそうだ。キュロスは各地を征服して大きな国をつくったけれども、その後の統治はとても寛大で、それぞれの民族や宗教や文化を認めて、全部飲み込むような政策をとっていたそうだ。そこでペルシャは大きな国になったそうだ。
好都合
しかしそのキュロスを主なる神が油注いだ王だ、神が遣わしているんだなんてのはちょっと都合のいい解釈だなという気もする。実際キュロスはバビロニアを滅ぼして補囚されていた人達を故郷に帰すという政策をとる。そこでユダヤ人たちも故郷へ帰れることになる。キュロスはユダヤ人からみれば異教徒であって、主なる神を信じているわけではないし、もちろん主の命令を聞いてユダヤ人たちを解放したわけでもないだろう。
でもそのキュロスが主が選ばれた者だ、というのは正直なんとも好都合なというか、勝手な解釈だなと言う気もする。自分達にとって都合のいいことをしてくれる、自分達を解放してくれる、だから主が油注がれた人だなんて、と都合のいい考え方なんじゃないのかという気もする。
きっと第2イザヤは寛大な政策をとるキュロスのことを知っていたのだろうし、キュロスに期待を抱いていたのだろうなと思う。やがてキュロスがバビロニアを征服すれば、補囚されている人達を解放するに違いない、そうすれば自分達も故郷へ帰れるんじゃないか、十分そんな予想もできていたんじゃないかとも思う。
と思いつつ、でもやっぱりそしてそれだけではなく、第2イザヤはそんなキュロスの背後に神の御手を感じていたということなのかなとも思う。
神が姿を現して何かをするなんてことは見たことないし、多分そんなことはないのだろう。私たちの見えない所にいて見えないところで働かれているのだろう。
私たちに目に見える物はほんの一部分なのだろう。見えないけれど、そこにある神の働きというか力、そして神の計画、それがそこにあるんだということ、それをこの第2イザヤは告げているようだ。
神の計画は私たちの望み通りとは限らない。思い通りにならないかもしれないし、多分思い通りにならないだろうけれども、しかし神の計画の中に私たちが生きているのだ。
むしろ私たちが自分自身で思い描く通りになることよりも、神の計画通りになる方が安心だ。神の計画がなかなか見えないところは辛いところだけれど、でも見えないけれど、私たちはその神の計画の中に生きている、だからこの神に支えられて、神に従って生きていこう、聖書からそう言われているような気がしている。