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礼拝メッセージより
嵐
主は嵐の中からヨブに答えた。今日のような天気ということなのか。雷が天からの神の声というような意識があったのだろう。旧約聖書には神が雲の中にいるというのがよく出てくるみたいだ。ラピュタは雲の中にいる、というのを思い出す。旧約時代には、神を見ることが出来ないし実際に見ると死んでしまうと考えられていたようだ。見えないけれども結構近いところにいると感覚もあったのかな。
遅いよ
そんな神が終に登場しヨブに語りかける。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。」
遅いよ、もっと早く答えてやれば良いのにと思う。そうしたらドラマが続かないけど。
ところで経綸というのは、計画、助言、構想、目的という意味だそうだ。どうして経綸なんて言葉に訳したんだろうか。もっと普通の言葉に訳せばよかったのにと思う。
それは兎に角、神が言うには、わかってもいないくせに神にいちゃもんをつけるとは何事か、ということのようだ。
神が大地を創造したときのことも、海を創った時のことも知っているのか。光がどこから来るのか知っているのか、雪の倉に入ったことがあるか、霰の倉を見たことがあるか、雨がどうやって降るのか知っているのかなんて言う。当時は雪の倉や霰の倉があって、そこから雪や霰が降ってくるという考えられていたようだ。さらにすばるの鎖を引き締めたり、オリオンの綱を緩めることができるのか、銀河を繰り出し、大熊と小熊を導き出せるのかなんて言う。夜空の星を自由に動かすことができるのかなんてことも言い出す。さらに稲妻が出せるのか、鳥や獣を養えるのかなんてことも言い出す。
わからない
そんな自然の営みを、その仕組みをお前はどれほど知っているのか、何も知らないじゃないか、知らないことがいっぱいあるじゃないか、ほとんど何もわからないじゃないか、そう言われているようだ。その自然を支配している神の事がわからないのは当然だ、と言いたいかのようだ。
この苦しみはなんなのか、自分がこんなに苦しい目に遭うのはどうしてなのか、納得できない、説明してくれというヨブに対して神は、そもそもお前はこの世の何を知っているのか、知らないことばかりじゃないかと言っているようだ。
しかし一体何が言いたいのだろうか。この世の成り立ち、自然の成り立ち、それは神が直接関与しているという思いがあったのだろうけれど、そんなことほとんど知らないんだから、自分がどうして苦しむのかということも分からないのは仕方がないと言いたいのだろうか。どうして苦しみに遭うのかということを納得しようとしても無理なことだと言いたいのだろうか。
それとも理解はできなくても、納得は出来なくても、それもこれも神が支配している、神の計画の中にある、何もかも神の手の中にあることだということを言いたいのだろうか。
悩み
子どもの頃から宇宙のことに興味があって、宇宙に関する本なんかもよんだりしていて、宇宙が広いということは聞いていた。実際はどれほど広いのかというのはあまり実感できてなかったし未だに実感出来ていない。
ある時、何かの本に宇宙の大きさに比べたら人間の悩みなんてちっぽけなものに思えてくる、宇宙の大きさを考えてみなさい、そうしたら自分の悩みが大したことないように思えてくるから、というようなことが書いてあった。
その時何を悩んでいたのか覚えてないけれど、でも宇宙のことを考えても自分の悩みがちっぽけなものには思えなかった。宇宙の大きさが実感できてないからかもしれないけれど、宇宙がどれほど大きくても自分の悩みは依然として大きな悩みだった、悩みの大きさは変わらなかったように記憶している。
ヨブに対する神の答えもそれと似ているような気がしている。
この答えでヨブは納得できたのだろうか。神が天地を支配しているとしても自分の苦しみの原因は分かっていないし神もそれについて答えてもくれていない。そんなのでヨブは納得できるのだろうか。
ここでヨブ記は何を言いたいのだろうか。結局は苦しみの原因なんてのは人間には分からないということなんだろうか。分からなくて当然、分からなくてもいいということなんだろうか。そんなもの納得したからと言ってもどうしようもないということなんだろうか。この神の言葉を聞いて皆さん納得できますか。後で分かち合いの時に教えて欲しい。
あるいは苦しみにばかり注目して苦しみしか見えていないヨブに、神は周りの自然や星を見るようにと促したのかも知れないという気はする。視点をずらして離れたところから自分を見るように促したのかもしれないという気はする。そうすることで自分を見る目も自分の苦しみを見る目も少しは違ってくるだろうとは思う。
でもやっぱりよく分からない。何を言いたいのだろうか。
神よ教えて下さい。