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礼拝メッセージより
エリフ
ヨブ記は31章までにヨブと3人の友達との論争が終わる。そして32章からエリフというヨブの友達よりも若い人が登場し、37章まではそのエリフの言葉となる。
続く38章1節には「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」とあるようについに主なる神が登場することとなる。
エリフは、自分は若いから黙っていたがヨブが自分の罪を認めず、神よりも正しいかのように主張していることと、友達がヨブに罪を認めさせることができなかったことに腹を立てていると語る。そして自分は神の息吹をいただいて語っている、神から示しを受けたから、つまり預言者が神の声を聞いたときののように語っているのだという。
またエリフは、ヨブは神が沈黙して何も答えないと文句を言っているが、神は人と同じように答えると期待してるのが間違いだ、神はいろんな方法で語っていると言う。また神は人に幻や夢の中で警告を語るが、それは人を悪から離れさせて悔い改めさせるためだと言う。そしてもし人が神のその声を聞き逃した時には、神は人に苦しみを与えて気付かせようとすると言う。つまり苦難は人の魂が滅びに至ることがないようにするための忠告なのだ、そのために神は何度でも試練を与えるのだ、と言う。
上から
3人の友達はヨブに向かって、この苦難は罪の結果なのだから罪を悔い改めて赦して貰え、そのためにはその罪を認めることが大前提だと語っていた。エリフはここにきて、苦難は魂が滅びることがないようするための忠告であるということを言う。間違った方向へ向かって行ってる者に間違っているということを気付かせるための試練であるということだ。
でも結局はエリフもヨブが間違っている、罪を犯しているという前提であるという点では同じだ。しかもエリフは、自分は神の息吹をいただいたから語っている、これは神の言葉だというようなことを口にしつつ語っている。自分の意見は神から直接聞いた真実なのだ、だからちゃんと聞けとでも言わんばかりの言い草だ。
聖書の中にも試練と言う言葉はいっぱい出てくる。試練を耐え忍ぶ人は幸いだ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただく、なんて言葉もある。エリフは語るように、試練は滅びに至ることがないようにという忠告なのかもしれない。エリフの言うことは正しいことなのかもしれない。
しかしだからといって正しいことだからといっても、それが相手の心に届くかどうかは分からない。真理を語ったからといっても、それで相手が納得するかどうかもわからない。
エリフが語り始めた動機は怒りだった。ヨブが、自分は罪を犯していない、間違ってはいない、むしろ神の方が間違っているんだということに怒り、またそのヨブに罪を認めさせることができなかった友達に怒っての発言だった。
歳をとってるくせに何も分かってないじゃないか、俺の方がよっぽどよく分かっているというような、上から目線の発言のようだ。
こんなこと言われて、ハイそうでした、私が間違っていました、なんてなるんだろうか。
共感
依存症や病気や困難や悩みを持った人が、同じ苦しみを抱えた人達が集まって自助グループを作っていると聞く。そこではお互いの体験を共有し分かち合うことによって癒されていき力が出てくるようだ。
人の苦しみは同じようなことを経験した者でしか共感できないことというのがあると思う。偉い先生から立派なことを言われても苦しいだけだけれど、自分の苦しみを聞いて貰うだけで楽になる。そしてその苦しみを心底聞けるのはやっぱり同じ苦しみに遭った者だけのような気がする。自分と同じ高さというか深みにいる者だからこそ共感できるような気がする。共感してくれる者がいることで救われるのだと思う。
『それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人達を助けることがおできになるのです。』(ヘブライ人への手紙2:17-18)
弱さ
神は全知全能であるという。何でも知っていてなんでも出来るのだろう。しかしだから余計に、神はどうして何もしてくれないのかと思ってしまう。どうしてこの苦しみから助けてくれないのか、救い出してくれないのか、神は一体どこにいるのかと思う。神は誰よりも何よりも強いはずじゃないのか、と思う。
神は実は弱いのかもしれないという気がしている。私たち弱い人間と共にいるために弱い神として私たちと共にいてくれているのではないかという気がしている。
ヘブライ人への手紙の中で、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったとある。私たちと同じように試練を受けて苦しまれたともあるけれど、イエスは私たちと同じように弱くなっているからこそ、私たちと同じように試練を受けて苦しまれたのではないかという気がしている。イエスは私たちと同じようにとことん苦しむために、私たちととことん共感するために、私たちと同じく弱い姿で、私たちと共に、私たちの心の中にいてくれているのではないか。
人生にどうして苦しみがあるのか、どうしてこんなに苦しまなくてはいけないのか、理由は分からない。ヨブ記では神とサタンの争いに巻き込まれたという設定になっているけれど、結局は人間にはその理由は分からないのだろう。
しかしその理由の分からない苦しみに遭う私たちの隣りにはイエス・キリストがいる。私たちと同じように苦しみを経験したイエス・キリストがいる。私たち同じ弱い姿のイエス・キリストがいる。私たちの苦しみを、嘆きを、悲しみをすべて分かってくれる、すべて受け止めてくれる、共感してくれるイエス・キリストがいる。そこにこそ私たちにとっての救いがあるのだと思う。
外国のサッカー選手がゴールをした後によく人差し指を突き上げて上を見上げている。私たちの神は圧倒的な力を持った強い姿で天の高いところに、あるいは天地を支配するために宇宙の外側にいるのかもしれないけれど、それと同時に弱い弱い姿で、私たちの心の中にいつもいてくれているのだと思う。そして私たちの苦しみも嘆きも悲しみも絶望も、全てを受け止めてくれているのだと思う。