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礼拝メッセージより
自分は罪を犯していない、なのにどうしてこんな苦しみに遭わないといけないのか、おかしいじゃないか、道理にかなってないじゃないか、そう訴えるヨブに対して38章から神が語りかけます。
「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。」
お前はどれほどのことが分かっているのか、わたしがこの大地を据えた時、お前はどこにいたのか、なんてことからはじまり、神は自分が天地を造り、星を造り、それから動物を造り子どもを産む次期も定めたことなど、この世のあらゆるものを備えたのだというようなことを話します。
そんなことを語る神に対するヨブの答えが、42章に出てくる言葉だ。
「あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」、「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。」、「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に座し/自分を退け、悔い改めます。」というものでした。悔い改めますと訳している言葉は罪を悔い改めるという時の言葉とは違うそうで、考え直しますという風な意味の言葉だそうだ。
何を考え直したのだろうか。それは神に対する認識、神とはどういうものかということそのもののようだ。正しく生きてきたのに苦難に遭うのはどうしてなのか、神はどうして苦難を与えるのか、神はどうしてそれを許すのか、おかしいじゃないかとヨブはずっと訴えていた。そのことを問い続けていたわけだ。しかしそれは正しく生きている者に神は苦難を与えることはない、苦難があるということは正しく生きていないこと、罪があるということだ、という前提がある。その前提に背くようなことになっている、つまり正しく生きている者にも苦難があるからどうしてなのかとヨブは問い続けてきた。
ヨブはここに来るまで、その正しい者に苦難はないという前提を崩すことはなかったようだ。神とは正しい者にいいものを与え、正しくない者に苦難を与える、そういう存在だったのかなと思う。
正しい者にも苦難が苦難があるのはどうしてなのかというヨブの訴えに対して直接答えることはなかった。しかしヨブは神のその答えを聞いて考え直すことにしたというのだ。なんでだろうと思っていたけれど、ヨブは自分の持っていた前提、正しい者には苦難を与えないで罪を犯した者だけに苦難を与える、神とはそういう存在だという前提そのものが違っていたということに気付いたんじゃないかなと思う。先週の学びの分かち合いで、神が正しい者に苦難があるのはどうしてなのかということにどうして直接答えていないのかと離していたが、それは正しい者に苦難があってはいけないという前提そのものが間違っているから答えていないような気がしている。
ヨブは「あなたのことを耳にしてはおりました。と言っている。聞いてはいたけれど、本当は知ってはいなかったということなんだろう。ヨブは自分が苦しみに遭うという経験を通して神の声を聞くことになり、この経験を通して神を知ることになったということなんだろうと思う。
苦難は神をよく知るためにある、そのために与えられる、かどうかは分からないしそんなことは言いたくないけれど、苦難を通して神の事をよく知るというのは実際あるような気がしている。
私たちも自分にとって都合のいいような神を勝手にイメージしているのかもしれないと思った。祈れば病気を治してくれて苦しみから解放してくれて金持ちにしてくれる、そんな自分に都合の良い神であればいいなと思う。
なのに祈っても聞いてくれないというか、祈っても叶わないとなるとどうしてなのか、どうして聞いてくれないのかと思う。祈りをちゃんと聴いて欲しい、ちゃんと叶えて欲しいと思う。
でも本当はそんな時は私たちが神をちゃんと知る機会なのかもしれないと思うようになってきた。神とは何なのか、どういう方なのか、それを知る時なのではないか。
ヨブは自分の持っている神のイメージが変えられた、というか神のイメージをここで修正したということなんだろうと思う。だから今まで耳にはしてたけれど本当は知らなかった、今はこの目で見ているというように分かったと言っているのだろう。
人生にどうして苦難があるのか、神はどうして苦難に遭わせるのか、遭わせないように守るのが神ではないのかと思うけれど、それは間違った前提じゃないのかとヨブ記は問いかけているような気がしている。
苦難があるのが人生、人生から苦難を取り去ることもできないということなんだろうと思う。でも苦難はなくなりはしないけれど、でも神はそんな私たちの人生を支えている、全宇宙を全部支えているように、私たちの人生を苦難をもひっくるめて支えているということなのかなと思う。
なんて分かったかのようなことを言っているけれど実際にはそんなに分かってないなあと思う。ヨブがこの目であなたを仰ぎ見ます、といったようには全然見えてはいないなあと思う。
数年前、神学校を出たばかりのある牧師の就任式の時に、祝辞をしたベテランの牧師が新しい牧師に対して、ずっと求道者であれ、というような話しをしたことがあった。教会では新しく教会に来た人を求道者という言い方をしているけれど、新しい牧師に対して求道者であれと言っていた。神を求め続ける者であれというようなことだったと思うけれど、その時それを聞きながら、今の自分の対する励ましだなあと思いながら聞いていた。
いつまでたっても神が分からないし、どうやらいつまでもたっても求める続けるしかないみたいだと思っていた。新しい人に求道者だなんて言えない、自分自身がまさに求道者だなと思っていたので、その時の祝辞を聞いてホッとして嬉しかったことを覚えている
人間はずっと求道者なんじゃないかなと思う。
苦しみを通して、いろんなことを通して私たちは神を少しずつよく知っていくのかもしれない。神とはどういう方か、私たちは少しずつ修正しながら、少しずつよく知っていくんだろう。
耳にしてはいたけれど、今はちょっとよく見えてきたと言えればいいなと思う。