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礼拝メッセージより
ヨブ記
人生に苦しみがあるのはどうしてなのか、昔はその答えがヨブ記に書いてあると思っていた。これこれこういうことだから人生に苦しみがあるんですよ、という答えが書いてあるのかと思っていた。
初めてヨブ記を読んだのがいつだったのか覚えていないけれど、その答えがいつ出てくるのかと思いながらよんでいたように思う。でもその答えを見つけられいで、なんだか分からない話ばかりで読むのをやめてしまった。
その後祈り会で毎週一章ずつみんなで一緒に読むようになっても、やっぱり苦しみの意味というような答えを探すつもりで読んでいたけれど、人生に苦しみがあるのはこういう理由ですというような直接的な答えは書かれてないみたいだった。ヨブ記は苦しみの原因を教えてくれる書物ではないような気がしている。
因果応報
突然子供達も財産も失ってしまい、次に全身が皮膚病になったヨブだったが、最初の頃は、裸で産まれて裸で死んでいくんだとか、神からは幸せを貰っているから不幸も貰おうとか、随分達観したようなことを言っていた。
そんなヨブを見舞いにやってきた友達は、やがてヨブが自分は生まれなかった方が良かった、自分は間違ったことはしていないのに神は自分を苦しめる、何も罪を犯していないのにおかしいじゃないかと訴えるのを聞き反論する。
友達の話しは、ヨブが今苦しみに遭っているのはヨブが罪を犯したからだ、神に逆らうことをしたからだ、原因はヨブにある、要するにそういうことを言っているようだ。因果応報という言葉があるけれど、悪いことをしたら悪い結果になる、苦しみに遭っているということは悪いことをしたということだ、罪を犯したということだ、友達はそう言ってヨブを説得しようとする。病気であったり障害を持っていたりする人は罪人だと見ていたというようなことが聖書にも出てくるけれど、それと同じような考え方なんだろうと思う。苦しみに遭っている病気になっているという事実が神に逆らった、罪を犯した証拠であるというような考え方だ。
ヨブの友達はヨブに対して、苦しみに遭っているのは罪の結果だ、そんなことはお前だってよく知っているだろう、罪の結果として苦しみに遭っているんだから、罪を悔い改めて神に赦してもらいなさいと進言しているようだ。罪と言う原因があってその結果苦しんでいるんだから、その罪と言う原因を取り除かないと苦しみはなくならない、罪を悔いて神に赦してもらって原因を取り除けば苦しみはなくなるということのようだ。だから友達はヨブに対して、自分が罪を犯したということ、罪人であることを認めなさい、そしてそれを赦してもらいなさい、そうすれば苦しみはなくなるんだから、ということを繰り返して話しをしているようだ。友達はただヨブを責めているのではなくて早く楽になって欲しいという思いもあってそう言っているようだ。
一方ヨブは自分は罪を犯していない、罪を犯していないのに神に苦しめられている、それはおかしいと主張して譲らない。つまりヨブも基本的には友達と同じ考えなのだと思う。
苦難に遭うのは神に逆らい罪を犯した結果であるという基本的な考えをヨブも友達と同じように持っているように思う。ところが罪を犯していないのに、正しく生きてきたのに苦しみに遭っているということはどういうことなのか、おかしいじゃないか、こんなことがあっていいのか、こんなことがあってはいけない、いったい何なのだ、これは神の間違いじゃないのか、ヨブはそう訴えているようだ。
期待外れ?
ヨブにとって神は自分の行いに応じて答えてくれる、従っているときには良いもの、自分の欲しいものを与えてくれて、従ってないときには苦しみを与える、そういう存在だと思ってきたのだろう。神はそういう風に自分の期待通りにしてくれると思っていたのだろう。けれどもここに来てどうやら神はそういう存在ではないのかもしれないと思い始めているようだ。ヨブにとって今や神は期待外れでしかない、そんな状況なのだろう。
いろんな災害や事件が起きて多くの犠牲者が出ているというニュースをよく聞く。あるいはいろんな不正や横暴がまかり通って正直者が馬鹿を見るというようなことも目にする。そんな時私たちも、神はどこにいるのか、神はいないのか、神は何をしていたのかと思う。神は全てを支配して正しい方向に導いているのではないのか、と思う。なんとなくそんな風に思っているのではないか。
あるいはまた一所懸命に祈っているのに神はどうして聞いてくれないのか、どうして癒してくれないのか、どうして奇跡を起こしてくれないのか、どうして苦しみばかり与えるのかと思うことも多いのではないか。
ヨブは自分の身に起こっている不条理な苦しみの中で、かつて持っていた神に対する期待が崩れてしまっているのではないかと思う。期待外れの神に半ば失望しているのだと思う。でもやっぱり訴える先は神しかなく、逆に言うとどんな時にも訴えることができる相手、どんな時でもぶつかっていける相手、それこそが神なのかもしれないとも思う。
ヨブはかつて自分の持っていた神の姿が期待外れに終わってしまったのだと思う。それは多分誰かから教えられた神の姿だったのだろう。しかしそこから自分自身の目で神の本当の姿を探し求めてもいるのだと思う。ヨブはどこに神を見つけるのだろう、そしてその神の姿をどんなものなのだろうか。
神を探し求めていると言う状況は今の僕の状況にも似ていると思っている。僕も神を探し求めている。特に日曜日の朝は。なかなか見つけられないという気持ちだ。
それでも僕の今おぼろげに見えている神の姿は、天の高い所にいて強い力を発揮して全宇宙を支配しているものではなくて、やっぱりイエスの姿だ。高いところから力を発揮して僕の願いを叶えてくれるような強い姿ではなくて、ただいつも一緒にいてくれる、僕の心の中にいてくれる、そんな姿のように思う。
はたしてヨブは神の姿を見つけるのだろうか。乞うご期待。