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礼拝メッセージより
生かされて
この頃、命って不思議だなあとよく思う。生きてるってことも不思議だなあと思う。
私たちも生きている訳だけれど、自分の力だけで生きているわけではない。
経済的に自立していれば自分の力だけで生きていると言えるのかもしれないけれど、食料や水は買えるけれど、呼吸するための空気は多分売ってないし、そもそも食料や水もお金があれば買えるけれど、自分の力でそれを作っている訳ではない。人間は自分が生きるために必要なものを自分の力で生み出すことはできない。
何を食べて、何をすれば生きていけるのかという、生きる術は知ってはいても、根っこである自分の命がどうやって守られているか、どう支えられているか、そんなことは誰も分かっていないんじゃないかと思う。いつ死ぬのかもわからないし、どうして今生きているのかもよくわからない。分からない所で支えられて生きているというか、生かされているとしか言いようがないように思う。
戦い
士師として選ばれたギデオンだったが、7章でミディアンとの戦いが始まる。ところが主は、ギデオンの率いる民は多すぎるなんてことを言う。自分の力で相手を打ち破ったと驕り高ぶることがあってはいかんということらしい。そこで、恐れおののいている者は帰れということになり、3万2千人集まっていた民のうち2万2千人が帰って1万人になった。
その時相手の人数は、8章10節を見ると「ゼバとツァルムナは、約1万5千の軍勢を率いてカルコルにいた。すべて東方の諸民族の全軍勢の敗残兵であった。剣を携えた兵士12万が、既に戦死していた」と書いてある。戦いで12万人が死んで1万5千人が残っているということは敵の数は13万5千人いたということになる。
13万5千人に対して3万2千人が多すぎるというのはどういうことかと思うけれど、そこから1万人に減らしたのに、それでも主は、まだ多すぎる、水辺で水を手にすくって飲んだ者だけを残して、かがんで水を飲んだ者は返すようにと言った。そうすると残ったのは300人だけになったという。
結局その300人だけで戦うことになった。
その後、ギデオンは、主から敵をあなたの手に渡すから下って行け、もし下って行くのが恐ろしいなら敵陣に下り、彼らが何を話し合っているか聞け、と言われ、敵の陣営へ近づき様子を探る。そこでは一人の男が神がミディアン人たちをギデオンの手に渡すというような夢を見た、という話しを聞いた。そんな話しが敵陣に広がっていることを知り、ギデオンは勝利を確信したのだろう。そこで300人を三つの小隊に分けて、角笛を吹いて、水がめを割って、松明を手にして、「主のために、ギデオンのために剣を」と叫んで敵陣を包囲した。そうすると敵はびっくりして敗走して、至る所で同士討ちを始めた。
その後は援軍を要請して、相手を追いかけて行き、相手の将軍も殺した、と書かれている。
多すぎ
そもそも300人で13万5千人と戦うなんてことになるとはギデオンは思ってもいなかった。6章33節以下のところを見ると、「ミディアン人、アマレク人、東方の諸部族が皆結束して川を渡ってきて、イズレエルの平野に陣を敷いた。主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛を吹くと、アビエゼルは彼に従って集まってきた。彼がマナセの隅々にまで使者を送ると、そこの人々もまた彼に従って集まってきた。アシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わすと、彼らも上ってきて合流した」と書かれている。
ギデオンは13万5千人に対抗するために、自分の属するマナセ族を始め、近隣の部族からも民を集めたのだ。できるだけ多くの民を集めることは当然誰もが考えることだろう。数が多いほど力があると誰もが考える。そして自分達が力を持って、その力で相手をやっつけようとする。相手に勝る力をこちらが持っていないと勝てるわけがないと思う。
しかし神は不思議な仕方でギデオンたちを助けたというのだ。敵の中に、ギデオンにやっつけられるのではないかという夢を見させ、その話しを広めさせ、疑心暗鬼にさせた。そこに夜襲をかけられることで混乱し同士討ちとなっていったというわけだ。
神の力
聖書には神はイスラエルの人たちが傲ることがないようにということで戦う民を減らされたと書いてある。そのために敢えてイスラエルの力をそいでいった。神の力による勝利を経験させたということだろう。
自分の力だけで生きていかねばならないならば、あらゆるものを準備して抜かりなく生きていけないといけない。力も富もいっぱい蓄えないといけない。それでも想定外のことが起こってくるなんてのが私たちの人生だ。自分だけの力で生きていかねばならないとしたら、それこそ人間を超えるような超人的な力を持たないといけないように思う。
しかしあなたたちは決して自分の力だけで生きているのではない、見えない所で神によって支えられて生きている、神の力によって生きている、そのことを今日の聖書は伝えているのではないかと思う。
なんて偉そうなことを言いつつ実際にはいろいろと心配ばかりしている。教会の人数も礼拝の人数も少なくなると途端に心配になり元気がなくなってしまう。まるで13万5千人の敵を前にして300人しかいないような無力感がいっぱいだ。
お前は神の助けによって生かされているんだ、と言われているようだ。
人数は問題ではない、私がついている、私が助けている、そのことを思い出しなさい、そう言われているような気がしている。少ないからこそ神の力がわかるのだと言われているのかもしれないと思う。
本当は人数が少ないことが問題なのではなくて、少ないといって嘆き元気をなくしていること、そして感謝と喜びをなくしてしまっていること、それこそが問題なんだろう。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二 4:18)
私たちが見えないところで神が支えてくれている、生かしてくれている、そんな見えないものに目を注ぎ感謝していきたいと思う。