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礼拝メッセージより
選び
今日の聖書はギデオンがイスラエルを救うために神から士師として選ばれて任命された時の話し。
神の選びというのはおもしろい。と言うか、人間には理解しがたいことが多い。何とも頼りない者に重大な役目をさせることも多い。人間的な基準だととても選ばれそうにもないような者を選んだりする。ギデオンもそんな一人のような気がする。
ミディアン
士師記6章の最初を見ると、例によってギデオンの時代にもイスラエルの人々は主の目に悪とされることを行った。それで、主は彼らを7年間、ミディアン人の手に渡されたと書かれている。
ミディアンとは、アラビア半島北西部にあって、カナンから見るとだいぶ南にある地域だ。聖書によると、ミディアン人はアブラハムの妻ケトラの第4子とされている。ヨセフの兄弟たちはヨセフをミディアン人の商人に売り渡した。そしてミディアン人はイシュマエル人と同様に、国際的な交易に従事していた。ファラオのもとから逃れたモーセはミディアン人の祭司レウエルのもとに身を寄せ、その娘と結婚した。その後イスラエル人がカナンの地に入ろうとしたとき、ミディアン人はモアブと一緒になってそれを拒もうとしたために、それまでの友好関係にひびが入り、激しい対立へと発展した。ミディアン人はらくだを乗りこなし、行動範囲は広く、その脅威も大きかった。
ギデオン
そのミディアンからイスラエルを救うために主はギデオンを選ばれた。
主の使いがやってきたときのギデオンの姿がふるっている。ミディアン人に小麦を奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていたのだ。敵を怖がって隠れて仕事をしていたようだ。しかも主の使いが、主はあなたとともにおられます、と言うのに対しても、なんで主が共にいるのに俺たちを見放したのか、主の驚くべき御業はどうなってしまったんですか、なんて反対に文句を言っている。
続いて主が、その偉大な力を持っていけ、おまえがイスラエルを救うんだ、わたしがおまえを遣わすと言うのに対しても、なんで俺にそんなことができるんだ、と答える。その後もしるしを見せてくれとか供え物をするまでここを離れないでくれとか、主の使いを見てしまったとか。ギデオンはいろいろな神の業を見てからもしるしを求めている。
何とも頼りない人間のようだ。それに臆病だったのかもしれない。こんな奴に大事な仕事を任すような人はいるだろうかと思う。国を救うような大事なことを任す奴はいないのでは。これこそ神業の選びだと思う。
そんな人間でも神は選ぶ。でも、というのは適切かどうかは分からない。そんな人間だからかもしれない。それは分からない。ただ言えることは神がそうしたということだ。こういう人間を神が選んだ、ということ。この人間を神が選んだ、と言った方がいいのかも。そしてそれしか言えないように思う。この人間がどうだからというようなことは言えないと思う。
勇者よ
ギデオンに対しての主の使いの最初の言葉がなんと「勇者よ」だ。陰でこそこそ麦を打っている人間に対して言う言葉なんだろうか。文句ばかり言っている、だだをこねているようなものに対する言葉なのか。しかし神はギデオンを最初から勇者として見ているのだ。だんだん勇者になれ、ゆくゆくは勇者になるのだと言っているのではない。最初っから勇者として接しているのだ。
神が勇者と見ているのだから勇者なのだ。勇者よと声をかけたときからもうすでに勇者なのだ。何かの条件がそろったのが勇者ではなく神の勇者は神が勇者と見ている者、勇者として接している者が勇者なのだ。一つだけ条件らしいものがあるとすれば、それは主が共にいる、と言うことだ。何回かこの主が共にいる、という言葉が出てくる。
神は私たちに向かっても、「勇者よ、主が共にいる」と語りかけているのではないか。
あなたを
私たちは神にあれをしてくれ、これをしてくれと祈り願うことが多いんじゃないかと思う。神よ、あなたがして下さいと。しかし神は私たちに対して、あなたがそれをしなさい、あなたがするのだ、あなたを遣わす、と言われているのかもしれない。
そんなこと言われても私には無理です、そんな能力も勇気もありませんと思う。ギデオンのように、こんな私にはできませんと思うことが多い。でも神は私たちに対しても、勇者よ、あなたのその力を持って行くがよいと言われているのかもしれない。あなたに頼む、あなたにはその力がある、あなたは力を持っているんだぞ、あなたはすごいんだ、勇者なんだ、そう言われているのかもしれない。
畏れ多いと言う気もするけれど、ちょっとうれしくなる勇気の出る言葉だ。