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礼拝メッセージより
失敗
先週久しぶりの結婚式があって、式の中で口づけをさせるのを忘れてしまった。いろいろ失敗はあるけれど口づけを忘れたのは初めてだったと思う。その後結構凹んでしまった。
「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」なんていう相田みつをさんの言葉があるけれど、やっぱりつまづくことはしんどいことだ。つまづかないかっこいい人間でいたいと思う気持ちが強い。そしてそんな自分をまわりに誇りたい気持ちも強い。
でも余計な事を言ったり、こちらは冗談のつもりでも相手を傷つけるようなことを言ってしまうなんてのは、大概自分が調子に乗っていい気になっていいる時だなと思う。そう思うと調子に乗りすぎるのも駄目だなと思う。時々は失敗するのがいい、というかそれこそが本当の自分の姿だということをいつも自覚しとくことが大事なんじゃないかなと思う。
勝利
ギデオンはミディアンとの戦いで、自分の兵を300人にまで減らされたにもかかわらず大勝利を収める。そんなギデオンに対してイスラエルの人達はギデオンとその子孫に自分達を治めて欲しいと願ったという。ギデオンに王になって欲しいということだ。
しかしギデオンはそれを断る。主があなたたちを治められるというのがその理由だった。しかしギデオンはイスラエルの人達に戦利品の耳輪を渡してくれと言って耳輪を集める。そうすると1700シェケルの金が集まった。これは20Kgだそうだ。そのほかに三日月形の飾り、垂れ飾り、ミディアンの王たちがまとっていた紫布の衣服、らくだの首に巻き付けてあった飾りがあった。
ギデオンはそれを用いてエフォドを作って自分の町に置いた。エフォドとは祭司が着る服のことだそうだ。そうするとイスラエルの人達はギデオンに従って姦淫にふけることになったとある。姦淫にふけるとは偶像崇拝をしたということだそうだ。神に祈るのではなく、立派なエフォドを拝むようになったということなんだろう。そしてそれがギデオンとその一族にとって罠となったという。
王のように
ギデオンには多くの妻がいて息子は70人いたと書かれている。シケムにいた側女の子にはアビメレクと名付けた。これは「わたしの父は王」という意味だそうだ。
王となって民を治めることはしない、主が治められる、なんてことを言いつつ、実際には大勢の妻と側女を持つという王のような生活をしていたということらしい。そんなことが出来るということはそれだけのお金も権力も持っていたということなのだろう。そうすることができたきっかけがエフォドを作りそれを崇拝していたということなんだろう。
ミディアンとの戦いに勝利した形ある証拠としてエフォドを作り、それを指揮した自分を誇りに思い、民にも見せつけるようになったのかなと思う。そしてそしていつしかそのエフォドこそ力の象徴である、エフォドを拝むことで御利益がある、というようなことになっていったのかもしれない。そしてだんだんと主を忘れていったのではないかと思う。
そしてギデオンが死ぬと、豊穣の神であるバアルを崇拝するようになっていったのではないかと思う。
おごり、たかぶり
士師として選ばれたギデオンだったが、忠実に主に仕えて暮らしたのではなく、ミディアンとの戦いで大勝利を収めてからはこんなことをしていたということだ。王のようにそれなりの権力も持っていたのだろうし、多くの妻と側女も持っていたというのだ。
そんなこと記録に残さなくてもいいんじゃないのか、聖書に載せなくてもいいんじゃないのかと思う。それでもこうやって聖書に載せているのは後の世代に対する警告ということなのかな。
罠に落ちそう
人間というのは立派になりすぎではいけないのかもしれない。というか立派になるほど神から離れてしまう危険が大きくなるということなのかもしれない。私たちはそんな危険をはらみつつ生きているということなんだろうと思う。自分は大丈夫なんて思う人こそ危ういのかもしれない。今日の聖書には『罠になった』なんて言葉があるけれど、私たちもいつ罠に落ちるかわからない、まさに罠に落ちそう、という瀬戸際を生きているということを知っていないといけない、今日の聖書はそんな忠告をしているのかもしれないと思う
偶像崇拝
そもそも神から離れることがどうして悪いことなんだろうかと思う。偶像崇拝はどうして駄目なんだろうか。確かに聖書にはそんなことが書いてあるし、教会でも偶像崇拝は罪だと言ってるので悪いことだろうとは思っている。しかしではどうして主なる神から離れて、偶像を拝むといけないのだろうか。違う神に乗り換えることはどうして悪いことなんだろうか。
聖書で禁止されているからだろうか。主こそまことの神だからというか、神は他にはそもそも存在してないからなんだろうか。確かにそうかもしれない。
本当のことはよくは分かっていないのだけれども、禁止されているから偶像崇拝をしないとかいうよりも、主なる神が、聖書の神が私たちを愛しているから、大事に大切に思ってくれているから、だからこそ離れるなと言われているのではないかという気がしている。そう思ってくれている神から離れると一人ぼっちになってしまうから、そうならないようにしようという先人の知恵として偶像礼拝はしてはいけないと言われているんじゃないかという気がしている。神から離れてしまうことで、力や富やあらゆるものをいっぱい持っていないと不安になりどんどん欲しくなるという欲望の虜になってしまい、安心と喜びがなくなってしまうから、だからこの神から離れるな、この神に聞いていけと言われているのではないかという気がしている。
神と共に
男は富と権力を手にするようになると決まって妻や側女をいっぱい持つようになるような気がする。しかし結局はどれだけ持っても満足できず、感謝も出来ない、そんな状態になってしまっているんじゃないかと思う。
欲望の虜になり、欲望に振り回されないためにも、欲望を満たしてくれるという偶像を崇拝してはいけない、感謝と喜びを与えてくれる主なる神こそ礼拝していこう、そんな先人からの声が聖書には詰め込まれているのではないだろうか。
しかし何かあるとすぐに思い上がり道を踏み外す、それが私たちの姿でもある。どんな時にもいつも共にいてくれている神を見ていこう、この神に聞いていこう、欲望を満たすために神を利用するのではなく、私たちがどう生きればいいのか、何が大事なのか、そのことを神に聞いていこう、そう言われているのだと思う。