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礼拝メッセージより
士師記
旧約聖書に士師記というのがあるけれど、士師なんていう日本語はあるんだろうか。原語の意味は「治める者」とか「裁き人」という意味で、士師というのは中国語聖書に由来するそうだ。
弁護士とか介護士、看護師とか占い師、牧師もそうだけど最後に「し」がつくことばがいっぱいあって、士なのか師なのかどっちにすればいいのか分からないこともあるけれど、その士師なんて聖書以外聞いたことがない。もうちょっと分かりやすい言葉にすればよかったのに。
それは置いといて、聖書の士師というおのは、出エジプトをしたイスラエル人がヨシュアを先頭に約束の地カナンへとやってきた訳だけれど、そのヨシュア以降から預言者サムエルが登場して王国となっていくまでの期間、イスラエルを裁いた人々のことを言うそうだ。
士師記には他民族の圧迫から民を救った英雄としての士師と、外敵との戦いには直接関係してない裁判人や仲裁者としての士師という2種類のタイプが士師がいたそうだ。士師記には12人の士師が登場するそうだけれど、どうやら12部族から一人ずつということになっているらしくて、実際にはそれぞれの部族の英雄だったのかもしれない。
契約
イスラエル人たちはエジプトを脱出して約束の地へとやってきたが、主なる神との契約を破った。原住民と契約を結んではならない、原住民の祭壇も壊さないといけないという神との契約を破った。世代も変わり、主の大いなるみ業を知らない世代になると、主の目に悪となることを行い、バアルとアシュトレトと言う原住民の神に仕えるようになった。だから主は怒りに燃えて、イスラエル人を略奪者の手に任せられた。イスラエルは敵の攻撃にさらされるようになったということだ。
しかし主なる神は彼らを哀れに思って士師たちを立てて略奪者から彼らを救った。なのに彼らは士師たちの言うことも聞かずに他の神々を崇拝した。士師が死ぬと余計に堕落した。だから主は、イスラエル人たちが先祖のように主の道を歩むかどうかを見るために、残った原住民をそのまま残すことにしたということだ。
偶像
しかしどうして主なる神を離れて、原住民の神を拝むようになったのだろうか。戦いに勝つのはそこの民族の神に力があるからだというような考えもあったそうで、強い力を持つ民の信じる神の方が力があると思われたのだろうか。そっちの神の方が魅力があったということなんだろうか。
ある牧師は、実際には先住民が強くて追い出せず、先住民の習慣に倣って彼らの神々を礼拝し、婚姻関係を結ぶことでカナンの地で生き延びることが許されるようになったのかもしれないと言っていた。
戦いに勝てる方の神、力の強い方の神を信じたいという気持ちも分かるし、その土地で生きていくためにその土地の神を礼拝しておいた方がいいという気持ちも分かる。いろんな神がいて自由に選べるならば、自分にとって都合のいい神を信じていけばいいような気もする。
しかし聖書では一貫して偶像を礼拝してはいけない、それは悪いことだと言う。偶像礼拝をすることで罰せられるからそう言うのだろうか。聖書にもそういう風に書かれている所もある。
熱い思い
しかし本当の理由はもっと違うところにあるんじゃないかという気がしている。12節に「彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主をステ、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。」とある。14節にも「主はイスラエルに対して怒りに燃え、、、」とある。
十戒の中には「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(出エジプト20:5)という言葉がある。
主なる神は熱情の神、そして怒る神なのだ。怒る程に熱い思いを持って民を見ている神なのだ。私たちの神はただお願いされたら機械的にそれを叶えてくれるような神ではない。あるいは遠くに居て自分のところまでやってきたら願いを叶えてやる、必死で祈れば叶えてやる、というような神でもない。
聖書の神はそんな、いわば冷たい神ではない。どこかに遠いところに鎮座ましましている神でもない。そうではなく熱い思いを持って民を見ている、熱い思いをもって私たちを見つめている、そしていつも私たちを共にいるそんな神なのだ。
偶像崇拝がいけないというのは、ただ他の神を拝むことが禁じられているからとか、本当はそんな神はないからというのもあると思う。けれどそれよりも、私たちの神が熱い思いをもって私たちを見つめているのだから、その思いから離れてはいけない、だから偶像を礼拝してはいけないと言われているんじゃないかという気がしてきた。
そんな熱い思いがあるから、神はイスラエルの民が逆らっても逆らっても士師を立てたり預言者を立てたりして、いつまでも関わっていったのだろう。
そして同じ熱い思いを持っているからこそ、同じようになかなか聞く耳を持たない、あるいは逆らってばかりの私たちにも、いつまでも関わってくれているのだと思う。
神はこの熱い思いに気付いて欲しい、熱い思いを受け止めて欲しいと思っているんじゃないだろうか。