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礼拝メッセージより
バベル
世界にはどうしていろんな言語があるのか、今日の物語はその説明をしている原因譚であるけれど、その物語を通して伝えたいこともあるようだ。
ここに出てくるシンアルとはバビロニア地方、チグリス・ユーフラテス川が流れる地。そこに大きな帝国を作ろうとしている人間の話し。そこには紀元前3千年ころからジグラットというピラミッドのようなものが作られていたそうだ。
大帝国を作り、その立派さを象徴するような大きな塔を建てようとする。れんがは、エジプトで作るような天日で乾かすのとは違って、火で焼く質のよういものがあったそうだ。そしてそれをアスファルトを接着剤として重ねていったらしい。石は山から切り出してこなければいけないが、レンガならば粘土を焼けば同じかたちのものがつくれて積み重ねるのも簡単になるようだ。つまり技術革新があって大きな建築物もつくることができるようになった。そこで人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
ところが主はそれを見て、みんなが同じ言葉を話しているから、こんな悪いことを始めたのだ、と言って言葉を混乱させた。そうすると言葉が通じないので町の建設を続けることが出来なくなって全知に散らされた。そういう話しだ。
一つ
天まで届く塔のある町を建て有名になろう、ということはどういうことだったのか。この「有名になろう」とか「散らされることのないようにしよう」なんてのは結局は権力者の言いたがるような言葉だと思う。
大きな塔と建てるなんてのは、誰かが書いてたけれど、それは公共事業なわけで、それは民の税金をいっぱい使って行い事業なわけだ。その税金を徴収するためには民がそこにずっといないといけない、散らされてはいけない。また自分の命令がすぐ通じるように一つの言語だと実に都合がいい。国中が一枚岩になって自分の命令通りに動けば一番いい。
そんな権力者が自分の力を周りに見せつけるために、そして自分でも自分の力を形あるものとして見えるようにしたいと思うのも自然な気持ちのような気がする。
この町は一つの民で一つの言葉を話していた、と書かれている。大帝国を作るときには、いろんな国を侵略していくわけで、いろんな民族いろんな言語の人たちが含まれていく。しかしそれが一つの言葉であるためには、無理矢理ある一つの言葉を使わせるしかない。
かつて日本も戦争の時には台湾や韓国の人たちに日本語を強制したことがあった。大きな国を作ろうとするとき、権力者はその国を一色に染めようとしたがる。違う意見を認めなくなる。違うことを考えることも許さないというようなこともある。
神が一つの言葉でいることをよくないと言ったのは、人間を無理矢理に一つにしてしまうことを神はよしとしない、ということでもあるのではないか。
もともと人間は同じではない。同じに造られていない。みんな顔も性格も違う。それがみんな同じ、一つの言葉、一つの考え、一つの気持であるということはどこかで無理をしているか、無理をさせられているということだろう。権力者は庶民を自分の思い通りにさせたがる。バッジをつけさせたり、いろんなところに権力者の写真を飾るという国がある。あれを見ていると変だなと思う。でも日本でも、学校の式典には正面に日の丸を掲げて起立して君が代を歌わない先生は罰せられるそうだ。
戦時中は教会でも礼拝の最初に、皇居遥拝、君が代斉唱、靖国神社の「英霊」への祈念をしないといけないとされていて、特攻警察が来て監視していたそうだ。日本は単一民族の国だからとよく言うけれど、その言い方はバベルが一つの民で一つの言葉であったように、日本の国民はこうするのだと無理矢理に一つにしようとしていることととても似ているような気がする。
違って
神は人を散らされた。それはいろんな場所で生きるようにされたということでもあるし、人がそれぞれに自分の生き方をするようにされたということでもあるんだろうと思う。
一つの言葉に無理矢理にまとめられるように、決まった言葉しか使えないとか、決まった生き方しかできないことではなく、それぞれの言葉で生きるように、その人自身の場所でその人自身の生き方で生きるようにということでもあるのだろう。それぞれ違いのあるままに、その違いのある上で生きるようにということなのではないかと思う。
同じでないと安心できないという場面もいっぱいある。日本はそんな意識が結構強いように思う。国会を見ていてもほとんどみんなスーツにネクタイをしている。そしてこの日からクールビズにしますと言われるとみんなでネクタイを外している。それと最近気 になるのは、国会議員は結構みんないい年しているのに、ほとんどみんな髪の毛が真っ黒だ。
そうしたい人がそうするのはいいと思うけれど、本当はしたくもないのにまわりに合わせないといけないというのはどうなのかと思う。自分が本当にしたいことができない、言いたいことも言えないということは、実は自分が自分に嘘をついているようなものだと思う。そして自分が自分に嘘をつくことっていうか、嘘をつくように強制させられることってのはとんでもなく苦しいことだと思う。
同じでなくていい、違ってていい、むしろ違ってないといけない、同じではいけない、と神さまは言われているのかもしれない。お前はお前じゃないといけない、と言われているのではないか。
それはそれぞれに生かされている自分の場所で生きるように、つまり散らされてそれぞれに自分らしく生きるということなのだろう。
お前達は同じではいけない、私はお前達をそれぞれに違う人間に創ったのだ、そんなお前達ひとりひとりが大切なのだ、神はそう言われているようだ。
だから私たちはそれぞれに私たちの人生を大事に生きよう、またそれぞれに違うお互いの人生を大事にして生きよう、今日の物語を通して聖書はそう語っているのではないかと思う。