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礼拝メッセージより
無駄遣い?
今日の聖書の状景はわかりやすいと思う。イエスが重い皮膚病の人シモンの家で食卓に着いていた時、一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し香油をイエスの頭に注ぎかけた。
ナルドというのは、ヒマラヤ山脈原産のナルドという植物の根から取った、非常に高価な芳ばしい香料だそうだ。その後の話からするとその香油は300デナリオン以上に売れるものだったらしい。1デナリオンが一日の賃金だから、1日の給料を1万円としても300万円もするようなものだった。その香油をこの人はイエスの頭にかけてしまった。
そこにいた人の何人かが憤慨して互いに、「なぜこんな無駄遣いをするのか、300万円で売って貧しい人々に施すことができたのに」と言った、それに対してイエスは、わたしに良いことをしてくれたのだ、できるかぎりのことをした、この人のしたことは世界中に記念として語り伝えられる、と言ったというのだ。
良いこと?
昔はこの話しが別に好きでもないでもなかった。イエスはこの女性のしたことが良いことだと言ったけれど、壺を壊して高価な香油を頭からかける行為がどうしてそんなに良いことなのか、昔からずっとよくわからなかった。
イエスに対して高価なものをささげたから良いことなのか、それとも後でイエスが言うように、埋葬の準備をしてくれたから良いことなのか、もうじきイエスが死ぬことを見越していることが素晴らしいことなのか。でも生きている内に埋葬の準備をするということは失礼なことだ、と何年か前の聖書教育にも書いてたが、そう言われればそうだなと思った。
イエスが良いことだと言ってるから良いことなんだろうとは思いつつ、やっぱり納得いってなかった。よく分からないけど、この女の人はすばらしい信仰心を持っていて、イエスに対して高価な香油で埋葬の準備をするというすぐれた行為をした、だからイエスがそのことを褒めたんだと思っていた。
だから私たちもイエスに最高のものを献げましょう、イエスはそんな立派な行為を褒めてくれます、という話しなのかと思っていた。ネットでいろんな人の説教を見ても、この女性のような立派な信仰心を持ちましょうとか、自分の持っている最高のものを献げましょうとか、できるかぎりの奉仕をしましょう、というような説教が多い。でもそれって精一杯奉仕しろとか精一杯献金しろと尻を叩かれているみたいで嬉しくもないし感動もなにもなかった。
絶望
この女の人はただイエスに精一杯のものをささげようとしていたのか、それこそできるかぎりの最高のおもてなしをしようというような気持ちで香油を頭からかけたのだろうか。もうすぐ処刑されるから埋葬の準備をしておきましょうと思っていたのだろうか。
ある牧師が説教の中で、この女性には絶望があったのではないかと書いてあった。この香油は大事に大事にとっていた高価な香油だったのではないかと思う。いざというときにはその香油を処分して金に換えるためにとっていたのかもしれない。もしかすると唯一の財産というようなものだったんじゃないかという気がする。
そんな大事な大切な香油を全部使ってしまった。壺を壊してイエスにかけたわけだから、最初から全部をかけるつもりでいた、残しておくという気はなかった、ということだろう。300万円を一気にぶっかけてしまうなんてことは普通の神経では出来ないことなんじゃないかと思う。そんなことができるのは超人的な信仰心のある人か、あるいは普通の精神状態ではいられないほど追い詰められた人のどちらかじゃないかと思う。
そしてこの女性はとことん追い詰められている状態だったんじゃないかと思った。300万円を使った後の人生をどうするかなんてことも冷静に考えられる状態でもなかったんじゃないか、財産を残しておくとか、もうそんなものはどうでも良くなっていたのではないかと思う。
この女性に何があったのか想像するしかないけれども、何をやってもうまくいかず、自分の運命を呪い、自分の無能さをも嘆く、そんなほとんど人生が破綻してしまっているような状態だったのではないかと思う。だから300万円の香油を全部かけてしまったのではないか。
何年か前に呉教会でこの箇所のメッセージをして、その後の分かち合いの時に、ある教会員の人の発言を聞いていた時に、その時どんな発言だったのか忘れてしまったんだけれど、この女性の行為は実は所謂良いことではまるでなかったんじゃないかと思った。
だから、この女の人は冷静に埋葬の準備をしたのではなくて、なぜイエスにそんなことをしたのか、この女の人自身にもよくわかっていなかったんじゃないかと思う。つまり、彼女には絶望しかなかったんじゃないかと思う。そして絶望した彼女の心に思い浮かんだのがイエスだったのではないかと思う。彼女はただ絶望した心をイエスにぶつけるしかなかったんだろうと思う。イエスがどうかしてくれるとか、助けてくれるとか、そんなことを冷静に考える余裕もなかったんじゃないかと思う。ただイエスに倒れかかっていった、そういう行為だったんじゃないかと思った。
滅茶苦茶
そこにいた何人かが、この女の人の行為を無駄遣いだ、と憤慨したと書かれているが、まさにその通りの行為だったんじゃないかと思う。
客観的に見ればただの無駄遣い、勿体ない行為、何の意味もないような行為、何馬鹿なことをやっているんだと叱られて当然の行為だったんだろうと思う。つまり香油を頭にかけるというこの行為は、実は滅茶苦茶な行為だったんじゃないかと思った。
それなのに
それなのに、その行為をイエスは、「それを良いことだ」と言ったんじゃないかと思った。そうだとするとこのイエスの発言はものすごいことだな思う。
誰もが非難するしかないような行為だったわけだ。誰もが勿体ないとしか思えない行為だった。けれどイエスはその行いを全面的に受け止めたということなんじゃないかと思う。誰もがけしからんことだ、迷惑なことだと否定するような行為をイエスは全面的に肯定したということなんじゃないかと思う。自分に倒れかかってきた人、その人の全てをイエスは受け止め、全面的に肯定したということなんじゃないかと思う。
イエスの言葉を聞いて一番びっくりしたのはこの女の人だったんじゃないかと思う。自分の滅茶苦茶な行為に対して、非難されてしかるべき行為に対して、反対に良いことだと言ってくれたといことになる。自分の行為を全面的に受け止めてくれて、さらにそこに、これは埋葬の準備なのだという意味を見つけ出してくれて誉めてくれたわけだ。
良いこと
この物語は、滅茶苦茶なことをした自分を全面的に受け止めてくれ、自分のした滅茶苦茶な行為に意味を与えたもらった、そんな物語なのではないかと思った。多分この女の人はこのイエスの言葉に支えられて生きていったんじゃないかと想像する。
自分のことを自分で嫌い、こんな自分では駄目だと自分で自分を責めている。そうやって自分を否定することが多い。今の社会は人も責めるし自分も責めることが多いんじゃないかと思う。
見捨てない
失敗したり、挫折したり、うまくいかないこと、思い通りにならないことが重なると、絶望感にさいなまれて自暴自棄になってしまう、もうどうにでもなれと訳のわからないようなことをしてしまう私たちだ。でもそんな私たちをイエスは受け止めてくれるということだ。私たちがどんな状態になったとしても決して見捨てはしない、今日の聖書はそのことを伝えているのではないか。イエスは、何があったとしても私がついている、絶対に見捨てはしない、そう言ってくれているような気がしている。
イエスのすごさがここに現れていると思う。