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礼拝メッセージより
8月
子どもの頃8月は丸々夏休みで、毎日のように海水浴に行っていてただただ楽しい時期だった。でも8月は戦争が終わった月だし、広島に来てからは原爆の月でもあり、戦争について考える時期になっている。
週報のコラム(牧師のひとり言)も戦争関係のことを書こうとしたけれどなかなか書けない。どうしたら無くせるのか、どうして無くならないのかと考えても全然まとまらない。屁理屈は言えるけれどただの机上の空論でしかないような気もしてくる。
昨日どこかの新聞のサイトをみていたら、長崎の原爆の日のことが書いてあった。ある女性が子どもの時に友達二人を誘って出掛けて、そこで被爆して友達二人は結局亡くなった。その一人の親から「あなたが誘ったから、あなたのせいで娘は死んだ」と言われた言葉を70年経った今も忘れられないということだった。いたたまれなくてその後長崎を離れたが、最近やっと原爆の日に来られるようになったということだった。
そんな話しを聞くと戦争の大変さ、不条理さを思い知らされる。そしてそんな戦争を起こし、やめられない人間の愚かさも感じる。
しかし、その記事の最後に、その女性も核兵器のない平和な世界を望んでいるというようなことが書かれていた。
最近核兵器廃絶ということにちょっと違和感がある。核兵器を廃絶すべきだと思うけれど、それだけでいいかのようなというか、そこが最終目標であるかのような言い回しに違和感を覚えている。その女性は核兵器がなくなればいいと思っているだけじゃないんじゃないか、戦争をなくしたいと思っているんじゃないか、戦争反対という声を核廃絶という声で押しつぶしたいと思っているのかもしれない、なんて訝しんでいる。
どれほど
ノアと家族はどれ位の間、箱舟の中にいたのだろうか。昔そんなことを思ったことがあった。聖書を見ると、7章11節に「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。」とある。その後雨が降って洪水になり、その水が段々減ってきて、地表がすっかり乾いたのが8章に書いてあるようにノアが六百一歳の二月二十七日で、その日に神が箱舟から出るようにと言ったので外に出た。ということで聖書によると箱舟に入っていたのは丁度1年間ということになるのかなと思った。
例によってインターネットで色んな人の説教を見ていたら、この洪水の話しは二つの資料が混在しているとのことだった。
一つは40日雨が降って、その後40日たってから烏や鳩を飛ばしてみたという話し。
そしてもう一つは2月17日に箱舟に入って、それから150日経って7月17日に箱舟がアララト山の上に止まって、2月17日に神から箱舟から出なさいと言われて出た、という話し。
その二つの話しを編集しているそうだ。だから何か分かりにくいし、1年間箱舟にいたというのは二つ目の資料での話しで、一つ目の資料ではもっと短い期間、多分40日の雨ののち40日洪水が続いて40日で水が引くという4ヶ月くらいということになるそうだ。
洪水
この洪水物語のもととなったとような話しが、メソポタミアのシュメール人が持っていたそうで、それが書かれた粘土板が見つかっているそうだ。そこには、ある神が他の神々に向かって、人類を洪水から救済すべきである、そうすれば人間どもは町や神殿を建てるであろうと語ったということが書いてあるそうだ。
創世記はユダヤ人がバビロンに補囚されていた時代にまとめられたようだけれど、バビロンはメソポタミアにあるわけで、シュメール人の洪水物語も伝わっていて、ユダヤ人たちもそれを聞いて感じるものがあったということなんだろうと思う。
バビロニアに征服されてエルサレムの町も神殿も破壊され、有力者の多くもバビロンへと補囚されていた。それは洪水によってほとんどすべて押し流されて水の中に沈んでしまったようなものだったのだろう。なぜそんなことになってしまったのかというと、それは自分達が神の声を聞いてこなかったから、神の声に従ってこなかったからと考えたようだ。ノアの周りにいた人々の姿こそがかつてのユダヤ人たちの姿を現しているのだと思う。
救い
洪水によってすべてを押し流されてしまっかのように国は荒廃してしまっている、しかしノアを通してそこから再出発するように、自分達もきっとやり直せる、自分達がノアとなってもう一度やり直すんだ、そんな希望をこの物語に託しているようだ。
箱舟から出たノアは祭壇を築いて焼き尽くす献げ物をささげたとある。箱舟の大きさは神殿の大きさと同じだと聞いたことがある。ノアの献げ物は、ユダヤ人たちがこれからやっていこうとしていること、神を見て、神との関係を大事にしていこうという決意の表れでもあるように思う。
21-22節に神がみ心に言われたという言葉がある。神が自分の心に語るとはどういうことかと思うけれど、そこにすべてをなくしてしまっているユダヤ人たちの希望があるようだ。人の思いは押さないときから悪だ、けれども二度と大地を呪うことはしない、二度と洪水は起こさない、国土を荒廃させるようなことは二度としない、そんな神の声をユダヤ人たちは聴き取っていたのだろう。そんな希望を持つようになっていたのだろう。
赦されて
自分達は悪い思いを持っている。もはや致し方ないどうすることもできない悪い思いを持っている。悪をぬぐい去ることもできない。しかしだからこそ赦されるしかない。赦されることでしか生きられない。そんな私たちを神は受け入れてくれる、そんな希望がこの神のひとり言に現れているようだ。だからこそこの神に聞き、この神に従って生きていくんだ、そんな決意の現れでもあるのだろう。
人間は相変わらず戦争を繰り返している。いつまで経ってもやめられない罪深い愚かな生き物だと思う。そんな罪深い生き物であることを私たちはしっかりと見つめて、しっかりと認識して生きていけないといけないのだろうと思う。間違いを脱ぎ生きることも出来ない生き物であること、ユダヤ人たちはバビロン捕囚を通してそのことを見つめ直したのだろうと思う。そして自分が正しいとか正義だとか思い上がることのないように、神に赦されて生きる道を進もうと決意したのだろうと思う。