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礼拝メッセージより
洪水物語
古代メソポタミアには、「ギルガメッシュ」という叙事詩がある。紀元前3千年頃に書かれたそうで、古代オリエントの文献にいろいろとある大洪水にまつわる物語はこの物語をもとにしていると考えられている。
それによると、神々の一人、天空の神エンリルが、増え過ぎた人間たちの騒ぎ立てる音で、ついに不眠症になってしまう。苛立たエンリルは、様々な天変地異をもたらして人間たちに反省を促そうとしたが、人間は少しも改める様子がなく彼らの騒ぎ立てる騒音は、ますますひどくなる一方であった。
頭に来たエンリルは大洪水を起こしてすべてを始末してしまおうと考えた。計画は成功しそうだったが、寸前のところで出産の女神イシュタルは絶望のあまり泣き出し、知恵の神エアは好意を持った一部の人間に箱舟のつくり方を教えて、様々な動物とともに大洪水から救ったのであった。こうして、人間は、繁殖と知恵の神の計らいで辛くも滅ぼされそうになったところを救われた。
ノアの物語もこの物語を参考にしているのだと思う。
悪
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」創世記1章で人を造ったときに神はそう言って祝福した。ところが人はその神に従うばかりではなく、神の意向からそれてしまうことばかりを行ってしまうものとなってしまっている。それが創世記が最初から繰り返し語る人間の有り様であるようだ。
自分の造ったものが思い通りにならない、自分の願わないことばかりをするようになってしまっている。「地上に悪が増し、悪いことばかりを心に思い計っている」とある。神はここで人を造ったことを後悔し、心を痛められた、というのだ。
造ったけれど出来損ないだったので処分してしまおうということだろうか。自分の造ったものが全く自分の思い通りに動かないと壊したくもなる。
洪水
11-12節には今度は、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神はごらんになった。見よ、それは堕落し、すべて肉なるものはこの地で堕落の道を歩んでいた」と言われている。
神はその地上の堕落を一掃するために洪水を起こすことにした、というのだ。しかしノアとその一家だけは救われることになった。そのためにノアに箱舟を造るように命じた。もともとの言葉はただ単に箱という意味だそうだ。前に進む必要のない、浮かんでいればいい箱ということだ。寸法は、長さが135m、幅が22.5m、高さが13.5m位だろう。結構な大きさになる。いきなりこんなものを造れと言われるとちょっと大変なことだ。
何かの映画でノアがこの箱舟を造るシーンがあった。そこでは周りの者たちが飲めや歌えで楽しんでいる最中にも、ノアの一家が箱舟を造るというのがあった。周りの者たちから、そんなもの造ってどうするのだ、こんな山の中でそんなもの一体何に使うのだ、なんて罵声を浴びながら造っていたように記憶している。
しかしノアはすべて神が命じられたとおりに果たした、という。聖書には書かれていないが、いろんな罵声があったとしてもおかしくない状況だ。あんな訳の分からないものを造ってノアはおかしくなってしまったんじゃないか、なんて言われるような状況だ。しかしノアは黙々と自分に命じられたことを行ったようで、ノアと家族は助かることとなった。
関係
神は、地上に悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを見て、人を造ったことを後悔し、心を痛めたという。出来損ないの人を見て悲しんでいる。では人が出来損なったということはどういうことだったのか。そのために神は心を痛められた、というのはどういうことなのか。
神がただ物を造っただけなら、命のない機械を造って、それがうまく動かないだけなら、おかしな動きをするというだけなら、心を痛めるということもないような気がする。
神は人を命あるものとして造った、そして神と共に生きるものとして造った。神との交わりの中に生きるものとして造ったのだと思う。ところがこの時、ノア以外の人たちは、神との交わりを持つことがなかったということのようだ。そのために悪が増し、常に悪いことばかりを思い計ったのだろう。悪とは要するに神の意志にそぐわないと言うことなのだから、神との交わりがなくなれば当然神の意志など分からなくなり、悪が増してしまう。
神との関係の中に生きること、それを神はずっと求めているのではないか。その人個人がどんな立派な人間にって、一人で何でもできる人間になることを求めているのではなくて、自分との交わりを持ち続ける人間でいること、それを神は求めているということだと思う。
ノアが清廉潔白、罪も汚れも全くない、一点の間違いもない人間だったとは書かれていない。ノアは洪水後のことを見てみると飲んだくれて裸で寝てしまうような人だった。決して完全無欠な人間だったわけでもなく、結構だらしない間違いをいっぱい持っている人間だったようだ。
しかしノアのことを、その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった、と言われている。口語訳では「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。」という訳になっている。正しく全き人、と絶賛されている。無垢な人、正しく全き人というのは、間違いが全くないということではないようだ。それはきっと、その人自身に欠点がまるでない、罪がまるでないということではなくて、神との関係の中に生きている、神との交わりの中に生きている、神の声を聞いて生きている、ということなのだ。そのことを正しく全き人と言われているのではないかと思う。
再出発
創世記9章では神はノアと息子たちを祝福して、埋めよ増えよ地に満ちよと言ったと書かれている。天地創造の時の言葉をもう一度言っていることになる。もう一度ここから、天地創造の時のようにもう一度最初からやり直せと言っているような気がする。
この物語では神の言葉を聞いて従ったノアと、聞かなかった周りの人達がいたと書かれているけれど、一人の人間の心の中にはその両面があるように思う。誰の心の中にも神を信じようと思う気持ちと信じられないと思う気持ちとが同居しているだろう。信じられる時と信じられない時もあるだろう。
洪水は私たちの神を信じられない思い、神に逆らう思いを神が流し去ってしまって、もう一度やり直せと言っている、再出発しろと言っている、そのことを暗示しているんじゃないかという気がしてきた。
過去の失敗や不信仰や邪悪な思い、そんな自分の駄目な部分にいつまでもこだわり、いつまでも支配され、そんな自分をいつまでも責め、いつまでも裁き、いつまでも嘆くことの多い私たちだ。
しかし不信仰も邪悪な思いも私が流し去ってしまう、そんなものは無かったかのようにする、だからあなたも自分を嘆き自分を責める思いに縛られるのではなく、私の言葉を聞く思いを大事にして再出発しなさい、私と共に新たな人生を生きるかのように生きなさい、神はそう言われているような気がしている。