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礼拝メッセージより
聖書
今祈り会では出エジプト記を1章ずつ読んでいる。その前の創世記を読んでいてその続きで出エジプト記に入っている。
昔は聖書というのは聖なる書物という名前になっていて、真実が書かれている間違いのない書物のように思っていた。神が7日間で天地を創ったのだと思っていた。というかそう信じることが信仰だと思っていた。1章と2章の創造物語に違うことが書いてあるなんてことも気付きもしなかった。いかに真面目に読んでいなかったかということでもあるけれど、やっぱり聖書なんだから間違ってないはずというか、矛盾はないはずという気持ちが強くて、ここは変だなと思うこと自体が悪いことのような気持ちがあって、強引につじつまを合わせようとして読んでいたような気がする。
でも、多分祈り会で毎週1章ずつ皆でああでもないとかこうでもないとか言いながら読んでいくうちに、そして時々は注解書なんかを見ながら読んでいくうちに、少しずつ聖書に対する見方が変わってきたように思う。
聖書は人間が書いたということは分かってはいたけれど、でも神が人間に取り憑いたかのようにして人間に書かせたようなイメージを持っていた。だからありがたく素直に受け取らないといけないように思っていた。
しかし最近は、聖書はそんないわば神が上から与えたものではなく、人間が神を探し求めた結果、いわば下から上を見上げて見つけたもの、そこで感じとったものをまとめたのが聖書なんじゃないかと思うようになっている。
いろんな苦しみや挫折や失敗を経験した中で、その折々に感じとってきた神や神の導き、それを文書にまとめた、それが聖書なんじゃないかと思う。それを物語や詩や歴史上の出来事との絡みなど、いろんな形で後世に残してきたのだろう。創造物語も実際にあった出来事、天地が本当に7日間でできたとかいうことを言いたいのではなくて、神とはどういうものか、人間とはどういうものか、神と人間との関係はどういうものか、そういうことをこの物語を通して伝えようとしているのだと思う。
エデン追放
神に創られた人は神の命令に背いて善悪の知識の木を食べたことからエデンを追放されることとなったと書かれている。その結果人は産みの苦しみや食べるための苦労が生じることになったと書かれている。それは神の命令に背いたという罪の結果だということなのだろうか。
人はずっと子供を産むときに苦しみ、食べるために苦労してきた。それはどうしてなのか、どうしてそんな苦しみがあるのか、その理由は結局はよく分からない、人は生まれながらにそうなっている、そういう風に生まれついているということを言おうとしているんじゃないかと思う。
アダムとエバが善悪の知識の木を食べたからだという説明になっているけれど、それはもう覆すことの出来ないことなんだということを言おうとしているんじゃないかと思う。
また人が永遠に生きる者となるおそれがあるからという理由でエデンから追い出し、また戻ってこれないようにケルビムと剣の炎を置いたと書かれている。ケルビムも剣の炎もどういうものかはっきりしないけれど、神の使いのようなものだと思う。兎に角もう決してエデンに後戻りはできないようにしたということだろう。
アダムとエバは追い出されたということになっているけれど、実際人が生きているのはエデンではないわけだ。苦しんで子どもを産み、食べ物を手に入れるために土を耕し苦労して生きる、そんな世界に人は生きている。そして永遠に生きるなんてことはない、やがて誰もが死んでいく、そんな世界に生きている。人は飽くまでも神ではない、神にはなれない、どれだけ願っても永遠に生きることもない、この物語をまとめた人はそのことを伝えているように思う。
自立
女性連合から出版されている「世の光」の聖書研究に丁度エデン追放のことが書かれている。そこでは『エデンの卒楽園』と見出しがついていた。よく失楽園という言い方をするけれどそうじゃなくて卒楽園とあった。「神は、「子どもたち」が「親」に無自覚に服従する時を経て、言いつけに背いてでも自由意志で自立した選択行動に進む成長を確認します。そこで神は、人が神に対しても人に対しても責任ある応答をする存在であることを期待します。」と書いてあった。アダムとエバはその期待通りにはいかずに神から隠れたり責任をなすりつけたりしたと書いてあった。
またある人の説教では、エデンの園とは母親の胎内のようなものだと書いてあった。エデンからの追放は、胎内から出て自分の力で生きていくようになること、そこから人間として生まれ出ることで、神が罰を与えたように書いてあるけれど、それは罰と言うよりもこれから生きていく上でこんな大変なことがある、けれどもどうにか頑張って生きて欲しいというような意味なのではないかと書いてあった。だからこそ神は二人に皮の衣を作って着せたというわけだ。裸であることに気付くというのも罪の結果というよりも大人へと成長していったということなのではないかということだったと思う。
外で
私たちの生きる現実はエデンではない、エデンの外、エデンから追い出された場所で私たちは生きている。いろんな苦しみのある中で生きている。
しかし私たちは神から見捨てられて生きているのではない。皮の衣を与えられ、子どもという新しい命を生み出すこともできる、そういう者として生きている。神は見えないし、エデンのように神の足音を聞くことも出来ない、けれども依然として私たちは神との関わりの中に生きているんだ、エデンの外で苦しみと共に生きていくしかないけれども、神は私たちを見捨てたわけではない、いつも私たちを見守っている、そのことを伝えようとしているのではないかと思う。