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礼拝メッセージより
エデンの園
創世記2章では、人は神が用意されたエデンの園に住んでいた。そして神は、「園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われていた。しかしその時まだ人は一人だけで女は造られていない時だった。
その後3章では、蛇が女に、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と聞いてきた。しかし神が言ったのは、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言っていた。神は「どの木からも食べなさい、ただし善悪の知識の木からは食べるな」と言ったのに、蛇は「どの木からも食べてはいけないと言ったのか」と問いかけた。しかしそもそも神が善悪の知識の木からは食べるなと言ったのは女が作られる前の話だ。蛇は神から直接聞いていない女に聞いたということになる。
女は「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えた。女の答えは神の命令と似てはいるが少し違っている。神は触れてもいけない、とは言っていない。女は神から直接聞いていないので、男から間接的に聞いたということなんだろう。伝言ゲームのように少しずつ違ってきている。
すると蛇は「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」なんて言う。
女はその木を見て、いかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していたというのだ。そこでその木の実を食べ、男にも渡したので彼も食べたという。
男は女と蛇の会話を聞いていたと思う。蛇に対する女の答が、神の命令と違ってきていることも分かっていたのではないかと思う。けれども男はそれに対して何も言っていない。ただ女から渡された木の実を無言で食べている。
二人は目が開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。人は善悪を知る者となった。
二人は神から自分自身を隠さなければならない者となってしまった。
神はアダムにどこにいるのかと語りかける。アダムは、裸だから神が恐ろしくなって隠れたと答えた。
神は「食べるなと命じた木から食べたのか」と聞く。アダムはあなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が木から取って与えたので食べた、と答えた。神は女に対して何ということをしたのかと問うと、女は蛇がだましたので食べたといった。二人とも自分のせいではないと言っているようだ。
苦しみ
その後神は女に向かって、お前は苦しんで子を産む、お前は男を求めお前を支配する、という。またアダムに向かって、お前は生涯食べ物を得ようとして苦しむ、額に汗を流してパンを得る、という。
どうして人生はこんなに苦しいのか、どうしてこんな苦しみの中を生きねばならないのかと思う。その原因をここで説明しているようだ。それは人が神の命令に背いたこと。最初の人間からしてそうだったということで、人間は生まれながらにして神の命令に背くような性質を持っている、ということを言おうとしているのかもしれない。
蛇
ここでは蛇が女に問いかけたことがこの物語の発端となっている。新共同訳では蛇は野の生き物のうちで最も賢いと訳されている。口語訳では最も賢いというところが最も狡猾だったと訳されていた。狡猾だったといわれるといかにも欺そうとしているみたいで、人間は欺された側のような気になるけれど、ただ賢いと言われると随分イメージが違う。
蛇が喋れるのかということにもなるけれど、実際に蛇が唆したというよりも、この蛇は私たちの心の中にいるというか、蛇の言葉は自分自身の中に湧き起こる思いというものを現しているのではないかと思う。つまり外から誘惑されたというよりも、自分の心の中で本当にそうなんだろうか、そんなことないんじゃないのか、と思う気持ちが湧いてきたということなんじゃないかと思う。
つまり、お前が大事だ、お前を愛している、お前はすばらしいという神の言葉よりも、そんなことでは駄目だ、もっといろんなことを知らなきゃダメだ、もっと知識を増やさなきゃダメだ、お前はまだまだ駄目だ、そんな自分自身の中に湧き起こってくる思い、それがここで言う蛇の誘惑なんじゃないかと思う。そして駄目な自分を恥じ、そんな自分を責められるに違いないと恐れ、神からも隠れようとする、そんな人間の姿がここに現れているように思う。
責め
僕は自分を責め自分を恥じる気持ちがいっぱいある。礼拝の人数も増やせないし、教会も大きくできない、反対に人数も減ってきて小さくなっていて、なんて駄目な牧師なんだろうと思う。お前は駄目だ、そんなことでは駄目だと責められるんじゃないかと恐れている。
そしてそんな言葉を恐れて前に進めない自分をまた自分自身で責めている。こんな無力な無能な駄目な人間は誰からも認められない、愛されない、責められるだけだと思っている。そうするといつしか神からの言葉が聞こえなくなってしまっている。
案外誰もがそんな風に自分で自分を責め、自分を恥じているのではないか、そして自分のありのままの姿を隠そうとしている、というか隠さなくてはならない恥ずかしい者と思うようになってしまっているのではないかと思う。
私たちは、この善悪を知る木の実を食べてしまっている状態にあるのだということを言っているのだろうと思う。この物語は、私たちはアダムとエバの失敗を繰り返さないように神の命令に従いましょうということではなく、私たちはもうすでに失敗をしてしまっている状態である、そのような状態で生まれてきている、そのために苦しんで生きているのだと言っているような気がしている。
どこにいる?
しかしそんな神の言葉を聞かない、神の命令に背いてしまった人間に対して、神はなおも語りかける。神の言葉を疑問に思ったり否定したりする、そしてこんな自分はダメだ、誰にも認められない、誰からも赦されないと自分で自分を卑下し苦しむ、そして神からも隠れてしまう人間に、神はなおもどこにいるのかと呼びかけると言うのだ。
しかし人は神からの「どこにいるのか」という声にもまともに答えてはいない。「恐ろしくなり隠れております」というのは何とも悲しい言い草だ。しかも女が取ったとか蛇がだましたとか、自分のせいじゃないと言ってしまうような人間だ。しかしそんな風にしか答えられない人のために、その後21節には「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」と書いてある。エデンの園を追放しようというんだから放っておけばいいようなものなのに、そんな二人のために皮の衣を作ったというのだ。
お前が大事だ、お前を愛してる、という神の言葉を疑うような、否定するような思いに私たちも襲われるのではないか。私たちはお前は駄目だ、まだまだ不十分だ、そんな思いに苦しめられ揺さぶられている。
そんな自分を否定し苦しみながら生きている私たちに、それでも神は目を留めているのだ、どこにいるのかと声をかけているのだ、そのことをこの物語は伝えているように思う。たとえどこに隠れようと、私はお前を見捨てはしない、お前を愛している、お前が大切なんだ、神のそんな声が聞こえてくるようだ。