前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
創造物語
2章4節から二つ目の創造物語がある。こちらは1章の創造物語よりも400年位古く、ダビデやソロモンの時代、イスラエルが繁栄している時代にできた物語だそうだ。
一つめの創造物語は神は天と地を創造した、という言葉から始まっているが、二つめは地と天を創るというふうに天と地が反対になっている。古い時代にまとめられた二つ目の創造物語では自分達が生きている地上以外のことはほとんど分かっていなかったということなんだろうと思う。その後400年位経って時代が下って来てバビロン捕囚の時代になり、空の星のことを少しずつ理解するようになって、天の星を含めた少し広い宇宙観を持った創造物語ができたのだろうと思う。
だから創造物語は神が天上から与えたものではなくて、人間が神を求めつつ、祈りつつ、下から地上から、この世界は何なのか、自分達人間とは何なのか、自分達はどうしてここにいるのか、そんなことを探し求めた結果辿り着いた、その時々の記録なんだろうなという気がしている。
命の息
一つめの創造物語では人は最後に創られたが、二つめの創造物語ではまず神は人を造ったという。しかも土の塵で形をつくり、その鼻に命の息を吹き入れられたという。6節に括弧で書いてあるけれど、土はヘブライ語でアダーマーと言うらしくて、アダーマーから造ったからアーダーム、アダム、それが人であったということだ。
形づくっただけではまだ生きていなくて、命の息を吹き入れられて生きる者となったと書かれている。命の息を吹き入れられたのは人だけのようで、人は神の声を聞き、神の命令を守る、そんな風に神との関係の中で生きていくように創られたということのようだ。
エデンの園
神はその人を東の方のエデンに園を造ってそこに置いて、そこにはいろんな実をつける木を造った。また四つの川が流れ出ていた。第一の川ピションはハビラ地方全域を巡っていたとある。これはインドのガンジス川ではないかという説もあるがはっきりしないそうだが、第二のクシュ地方を巡っていたギホンとは、エジプトのナイル川のことらしい。第三、第四のチグリス、ユーフラテスは今でもその名前になっているメソポタミア、現在のイラクを流れる大きな川だ。ユダヤ地方は水が乏しくて、現代の領土問題も水を巡る争いなのだと聞いたことがある。そこで水が豊かにあるエデンという理想郷を神が用意してくれたと考えたようだ。
そして人にその園を耕し守るようにされた、と言うのだ。「耕す」という言葉は、奉仕する、仕える、とも訳される言葉だそうだ。つまりこの大地、この世界をしっかりと管理し守ること、それが命の息を吹き入れられた人間が神から与えられた大事な務めなのだというわけだ。
しかしそのエデンの園の中央には命の木と善悪の知識の木もあり、人は善悪の知識の木からだけは食べてはいけないと言われていた。食べると必ず死んでしまう、と言われている。
彼に合う助ける者
次に神は、「人が独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者を造ろう」と言った。そして土で獣や鳥を造ったけれども彼に合う助ける者とはならなかった。
この「彼に合う助ける者を」というのは前の口語訳では「彼のために、ふさわしい助け手を」と訳されていた。ここの『合う』という言葉は、向かい合うという意味なのだそうだ。つまり彼に合う、というのは、彼にぴったりだとか釣り合いが採れているという意味ではなく、お互いに向かい合って生きるということらしい。そこで新共同訳では『ふさわしい』ではなく『合う』と訳しているようだ。
また『助ける』とは助手というようなことではなく、お手伝いさんというようなことでもないようだ。たとえば詩編70:6「 神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」という中に出てくるように神がわたしの助けであるというときと同じ言葉が使われている。
つまり「彼に合う助ける者」というのは、お互いに向かい合って生きるパートナー、ということのようだ。
そんな相手が見つからなかったので、神は人のあばら骨から女を造ったという。つまり肉体を二つに分けたようなものだ。そこで人は、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と言った。肉?人からは骨しかとってないけど、なんて思ってしまう。とにかくほとんど自分自身のように、自分の分身のような相手を、パートナーを神が造ったということだろう。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と書かれている。ここを読むといつも思い出すけれど、父母を離れるのは女ではなく男の方だ、と神学校の先生が言っていた。さざえさんちは聖書的かも。
また男は父母を離れて女と結ばれ、の『離れて』という言葉は、捨てるとうい意味の言葉だそうだ。結婚ということに関して飽くまでも個人と個人の関係ということを言っているのかもしれない。
しかしこれは夫婦関係だけではなく、人は一人だけでは足りない、生きていけないような存在であるということを言っているのだと思う。人間は誰もが足りなさというか欠けというか、そういうものを持っている、そしてその足りないところを互いにカバーし合って、補い合って生きるように、もともとそういう風に造られている生き物なのだ、ということもこの創造物語は伝えているのだと思う。
違い
しかし人は誰が一番偉いかと争いたがる。私はこんなことが出来るといって自慢したり、こんなこともできないといって相手を責めたりする。けれども人がいろんな違いを持っているのは、どうやら助け合うためだと言っている。神は助ける者としてもう一人の者を造った、違う人間を造ったと書かれている。
今の社会は違いを認められにくい社会である。そして競争ばかりしている。競争に勝つことが正義であって、お金をいっぱい儲けた者が成功者だと言われているように思う。そして周りに勝つことを目指して、お金をいっぱい集めることを目指している。違いを認めるだの、助け合うだの、何を甘ったれたことを言っているのかと言われそうだ。
この創造物語ができた当時のイスラエルは栄華を極めるような時期だったそうだが、自分達が競争を勝ち抜いた勝利者であり成功者であるというような思いでいたのではないかと思う。そうだとすると、人間は向かい合い助け合うように造られたと語るこの物語は、とても過激な物語でもあるように思う。
造られた者として
私たちは自分がいろんなものをいっぱい持つことの喜びよりも、誰かの役に立つことの喜びの方が遥かに大きいと感じるのではないか。それは私たちがそのように神に造られているからということのようだ。
助け合い、分かち合い、いたわり合い、愛し合う、私たちはそのように造られているんだと創造物語は告げている。私たちは神にそのように造られているんだから、だから造られた者として、助け合い愛し合いながら生きていくこと、そして造り主である神の声を聞きながら生きていくこと、それこそが私たちにとって大事なことだ、この創造物語はそう告げているように思う。