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礼拝メッセージより
日曜日
今日は日曜日だけれど、日本で日曜日に休むというふうになったのは明治以降だそうだ。西洋のしきたりを取り入れたということらしい。その西洋で日曜日に休みとなったのは、結局は旧約聖書の創世記で、神が天地を6日間で創って7日目に安息した、となっているということかららしい。一週間が日曜日に始まるので7日目とは土曜日ということになる。そこでユダヤ教では土曜日が安息日ということになっている。けれどもキリスト教ではイエス・キリストが日曜日に復活したということでだんだんと日曜日を休みとするようになったそうだ。
その7日目を休みとするという根拠となったのが、今日の聖書の箇所になる。
しかし6日間で天地を創造したのあれば一週間は6日間で良さそうな気もするけれど、どうして何も創らなかった7日目がセットになっているんだろうか。
よく思うけれど8日目は何したんだろうか。というか8日目以降にも何かをしたというのなら、7日目に何もしないで休んだとか休憩したとか言うのであれば7日目の意味もあるという気がするけれど、最後の日に何もしないというのが何だか妙な気がしている。
しかしよく見ると神が天地を創造したあとただ休んだとは書いてなくて、神が安息したと書いてある。安息というのは「何の心配、苦痛もなく静かに休むこと」と書いてあった。
この創造物語はユダヤ人がバビロン捕囚をされていた時代、紀元前5,6世紀に、バビロニア今のイラクあたりに伝わっていた創造物語を参考にまとめられたらしいけれど、当時から休みとか安息とかいうことを大事に考えていたということなんだろうなと思う。日本だとかつては庶民の休みは盆と正月だけだなんてことを聞くけれど、旧約聖書の十戒では一週間に一日休まないといけないとなっているが、これはすごいことなんじゃないかと思う。
OFF
スーパーでバイトをするようになって、一日中予定がないという日がほとんどなくなった。毎日バイトしているわけではないけれど、結局他の予定のある日をバイトの休みにしてるので毎日何かしらの予定があって、一日中何の予定もないという完全OFFの日がほとんどなくなったなあなんて思っている。
森田療法
まとまった休みが欲しいなあなんて思いつつ今日の聖書を読んでいると、ふと昔の登校拒否をして入院したというか、入院させられた神経科の病院のことを思い出した。そこは森田療法をやっていて、入院すると一週間、基本的に横になって過ごす。起きるのは洗面と食事とトイレの時だけで、あとはただずっと横になるだけで何もしないで一週間を過ごす。一週間無理矢理休まされる。そうすると何でもいいから動きたくなる。一週間なにもしないで休むというのは結構辛いことだった。
休み
忙しくなるとしばらく何もしないで休みたいなんて思うけれど、でも実際にはなかなか休めないというのが本当のところなんではないかと思う。
やらないといけないことが溜まっていたり、心配なことがあったりすると何もしていなくても結局は休めていないなんてことになりがちだ。
イエスの招きの言葉がある。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11:28)
重荷をなくしてやろうとは言わなかったけれど休ませてあげようと言っている。
私たちは苦しいことがあると、それを神に解決して欲しい、無くして欲しいと願って祈ることが多いんじゃないかと思う。けれども実際にはなかなかそうはならない。祈ったからと言って私たちの願いどおりにはなかなかならない。祈ったら、お金持ちになって、才能豊かになって、偉くなって、美人になって、イケメンになって、病気が治って、元気になって、みんなから褒められて、有名になって、、、そうしたら幸せに暮らせるのにと思うけれども自分の思い通りにはならないみたいだ。自分の重荷も無くして欲しいと願うけれども、自分の重荷はやっぱり自分で負っていかないといけないらしい。いやでも自分は自分で生きていくしかないらしい。ずっと重荷を抱えて生きていくということは大変なことだ。
本当に大変なことがあると休もうと思ってもなかなか休めない。心配ごとがあるとゆっくり眠ることもできない。でもイエス・キリストはそんな私たちに休ませると言ってくれている。イエス・キリストはどうやって休ませてくれるのかよく分からない。しかしイエス・キリストは自分の所へくれば休ませる、と言ってくれている。
心配をいっぱい抱えつつそこでイエス・キリストを見上げる、イエス・キリストの声を聞く、心配ごとから少し目を離し、少しの間手を離すことが出来るということかなとも思う。
そして休むことで次の一歩を踏み出す力が出てくるのだろう。イエス・キリストは私たちの重荷を取り払うというような仕方ではなく、重荷を一時あずかってくれて休ませてくれる、そんな仕方で私たちを元気づけてくれるような気がしている。そして私たちが自分の力で生きていくように助けてくれるというか、後押しをしてくれているような気がしている。
完全OFF
そもそも礼拝とはそういう風にイエス・キリストのもとで休む、イエス・キリストの下で安息するということなのだと思う。毎日の生活での重荷、悩みや苦しみや嘆きや、そんなものを一時でも手を離しイエス・キリストに持って貰って休むということではないかと思う。私たちはそうやってまた新たな力を貰って、それぞれの重荷を負って生きていく。
イエス・キリストに目を注ぎ、イエス・キリストの言葉を聞く、聖書の言葉を聞く、普段の生活から一時離れて、完全OFFになる、それが本来の礼拝なんじゃないかなと思う。うちの教会の礼拝がそうなっていればいいんだけれど。
ユダヤ教では律法で安息日には労働をしてはいけないということになっていて、それを徹底しているそうだ。エレベーターのボタンを押すことも労働になるそうで、安息日には自動で各階に止まるようになっているそうだ。あるいはハンカチを手に持っていくことは労働になるけれども手に巻き付けていれば労働ではない、というようなことを真面目に論議しているそうで、イエス・キリストも安息日だからと言って病気や怪我の治療をしないなんてのは本末転倒だと思う。
でも人間はそれくらいでないとなかなか休めないのかもしれないなあと思う。実際には完全OFFにするのは難しいだろうなと思う。丸一日OFFにするのは大変だろうけれど、少しの間だけでも、自分の普段の生活とは別の時間、離れた時間を持つこと、いろんな悩みや不安やしんどさを一瞬でも手放す時間、重荷をちょっと肩から降ろす時間、それは人間にとってとても大事な時間なんだろうと思う。だから創造物語の七日目に神が安息した、その日を祝福し聖別したとなっているんだろうなと思う。聖別というのは分けて取っておくというような意味で、普段の生活とは別の時間として分けたということのようだ。
普段の生活をしばし離れて、いろんな思いをちょっと脇に置いて私といっしょに憩いなさい、神はそう言って私たちを招いておられるのだと思う。その招きに応えて一緒に憩う、それが礼拝なんだろうと思う。そこで私たちはいろんな思いや重荷を背負っていく新たな力、この一週間を生きていく力を得ていくのだ。