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礼拝メッセージより
下を向いて
3月にあきシニアアンサンブルというオーケストラのコンサートに合唱団で賛助出演した。それを録画したdvdを貰って見たら、僕はやたら下を向いて歌っていた。他の人達よりもだいぶうつむき加減だった。楽譜を気にしてというのもあるけれど、最近は礼拝の人数も減るし新しい人も来ないしと、気持ち的にも下向きだからかなあなんて思った。
宇宙
聖書の一番最初は、初めに神は天地を創造されたと書かれている。随分簡単に言っているけれど、地はともかく天はでかいよなと思う。
今も教会に太陽と水星と金星と地球を貼っている。数年前に、太陽系の大きさを実感したくて、地球の直径を1mmとして計算すると太陽は10cm位に、水星は0.4mm程、金星は地球と同じくらいで1mmほど、火星は0.5mmほどになった。その大きさで太陽からどれ位離れてるのかというと、水星まで約4.5m、金星まで約8.5m、地球まで約11.7m、火星まで約17.9mだった。
その縮尺で教会の講壇の後ろに10cmの太陽を描いた紙を貼って、水星と金星と地球の紙をその距離に貼ってみた。水星も金星も地球も1mm以下なのでほとんど点でしかないけれど、その割りにはえらく太陽から遠くてびっくりした。火星は教会の玄関の外になった。ちなみに惑星で一番遠い海王星はその縮尺でも太陽から350m余り離れていることになる。教会から市役所くらい離れて4mmくらいの海王星が回っているという感じ。太陽系ってのはすかすかだったのでびっくりした。
太陽から地球までが光でも500秒程、8分余りかかる。その調子で光がずっとずっと進んで行くと、1時間で80mくらい、1日で2kmくらい、1年で700kmくらいかな。一年進む距離が1光年なので、地球が1mmだとすると1光年は700kmくらいだから、東京辺り。1光年でもそんなに広いけれど、太陽系のある天の川銀河の直径は10万光年もあるそうで、1光年の10万倍、東京までの10万倍なんて訳が分からない。遠くの銀河は100億光年以上離れているそうだけれど、一体どのくらい遠いのか考えただけで頭がくらくらしそう。そして自分達はその中の1mmの地球上で生きている訳で宇宙のあまりの大きさに呆然としてしまう。
創世記
聖書の最初に神が天地を創造したことが書かれている。地というのは今で言えば地球ということになるんだろうけれど、天とはそうすると宇宙ということなのかな。当時は宇宙の大きさなんて分からなかっただろうし、そもそも地球が丸い星だと言うこと自体も多分分かっていなかっただろう。だから天と地という言い方をしたんだろう。天が上にあって、下が地という上下関係しかない、それが当時の宇宙観だったんだろうなと思う。今創世記を書くとしたら随分違った書き方になるだろうなと思う。
初めて人工衛星に乗って宇宙に行った飛行士が、どこにも神はいなかったと言った、ということを読んだことがある。
しかし創世記は科学的な書物では無い。天地は文字通り創世記に書かれた通りに創られたと思う必要はないだろう。アメリカの一部の教会は聖書に書かれた通りに天地は創造されたと信じているそうだけれど、聖書は科学的な文書ではない。そうではなく、神と世界、神と人との関係を現すものだ。
しかし聖書はそれとは別の見方、いわば目に見えないところというか、この世界はなぜ存在するのか、人間はなぜここにいるのか、自分はなぜここにいるのか、というような科学とは別の切り口で書かれているものである。
だから聖書の創造物語を科学的にもこの通りだったのだ、という必要はないだろう。そもそもそんなことを説明しようとはしていない。
バビロン補囚
創世記がまとめられたのはバビロン補囚の時代だそうだ。
ユダヤ人たちはかつて神に導かれて、奴隷であったエジプトを脱出し約束の地へやってきた。どうにか自分たちの土地も確保した。ところがやがて自分たちの国は滅ぼされ、国の主だった者たちはバビロニアという国へ連れてこられてしまった。
そのバビロン補囚の苦しみの中で彼らは自分たちの過去を振り返った。自分たちの信仰を振り返った。自分たちはどういうものなのか、どうしてこんなことになってしまったのか、国が滅ぼされてしまい、神殿も町も崩されてしまう、そんな極限状態、まさに混沌の極みの中で彼らはもう一度考えなおしたのだろう。神はどうして助けてくれなかったのか、神は無力なのか、それとも自分達が間違っていたのかと。考え直したと言うよりも神を探し求めたと言った方があっているのかもしれないと思う。そこで彼らはその地方に古くから伝わっていた創造物語を参考にしてまとめたのが創世記だったようだ。だからこの部分は科学的に神がこの順序で宇宙を創ったということではなくて、ユダヤ人たちが見つけた神がどういう神なのか、自分達はこの神とどういう関係にあるのか、そういうことを伝えている物語なのだと思う。
光あれ
バビロン補囚の時代はユダヤ人にとってまさに混沌と闇の時代だった。希望も何もない、希望の種も何もない、そんな時だった。目の前が真っ暗だった。しかし彼らはそこに神の光を見いだした。神が光あれと言われて光があったと書かれているが、彼らは暗闇の中、混沌の中で目には見えない神の光を見たのだと思う。
ここでは神の創造する様を客観的に見ているような書き方をしているけれど、これはユダヤ人たちが探し求めた光を見つけた見つけたということを伝えているのではないかという気がしている。
自分達は真っ暗な中にいる。しかし神はそこに光を射してくれる、今自分達には見えていなくても神の光は射しているんだと言っているような気がしている。
上を向いて
自分自身の中には光がなくても、自分自身の中に希望と喜びの種がなくても、神の光が射しているならば、そこに喜びと希望が生まれる。あなたにもそんな神の光が射している、だから上を向いていこうじゃないか、神の光を浴びて、感謝と希望と喜びを持って生きていこうじゃないか、そう言われているような気がしている。