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礼拝メッセージより
常識
テレビによく物知り顔の専門家たちが登場する。冠婚葬祭とかで。葬式の時はこうしなければいけない、結婚式の時はこうしなければ、とかいう人。それを知らないことがいかにも常識のない奴だとでも言わんばかりのいい方をする。
しかもそういう時には決まって、冠婚葬祭の常識、なんとかの常識とか、いう言い方で説明している。それでクイズなんかしてみたり、でみんな間違っていたりするとその専門家という人がにんまりして、実はこうこうするのです、なんて言ったりする。みんなが知らないことは常識じゃないだろう、と思ったりしながら見ている。そして本当にそうしなければいけないのか、と思う。
会社に入った時の研修にも社会のマナーというのがあった。その中に結婚式の招待状の返事の書き方というのがあった。御住所の御を線で消して、御芳名を氏名に書き換える、宛名の誰それ行き、というのを様に書き換えるとかいうやつ。まだあったかな。でもそれ位しか覚えていない。
そう教えられるとそんなものかと思っていた。ところが自分の結婚式の時の返事の中にはそんな風にきっちりといわゆる常識通りの返事、テレビのクイズで満点となるような返事はそう多くはなかった。御住所も御芳名もそのままの返事もあった。神学部の教授たちは結構不正解が多かったような記憶がある。案外そういうのには無頓着な人が多かったのだろう。専門家に言わせると、常識のない教授たちなのだ。
でも自分がそんな返事を貰って考えた。それまではただ漠然とマナー通りにしないといけないだと思っていたけれど、御住所と御芳名を書き換えなくっても別にたいした問題ではないんではないかと。そんなことしなくてもどうってことないじゃないか、もちろんあいつは常識を知らない奴だと言う人もいるだろうけれど、結局はそれだけのことじゃないかと思うようになった。そんな事に対して常識だの何だのと目くじら立てる必要はないんじゃないかと思う。
書き換えた方がいいと思う人はそうしたらいいので、それをしない人に対してことさら文句を言う必要はないんではないかと思う。
ねばならない
ローマの教会にもどうも似たようなところがあったらしい。これはこうしなければいけないと言っている人たちと、そんな事にこだわるのは間違いだと言っている人たちがいたようだ。
異邦人キリスト者たちは偶像に供えられた肉なども気にせず食べていて特定の日を重んじるなんてこともなかったそうだ。一方ユダヤ人キリスト者たちは律法で禁じられていた物を食べず、特定の日を重んじていたそうだ。
これは食べてもいい、これは食べてはいけないとか、今日は何とかの日だ、とか言う風にいろんなことを知っている人の方が偉い人のように思う。物知りの人、という印象がある。教会でもこれこれはこうするもんです、この日にはこれをするもんです、キリスト教ではそうなっているんです、なんて言われると、どうしてそうなっているのかよくわからんでもそれに従わないといけないように思ったり、その人が偉い人というか、信仰深い人の様に思ったりする。
ところがパウロは、野菜しか食べない人、特定の日を重んじる人のことを、信仰の弱い者たちと呼んで、宗教的なこだわりを持たずになんでも食べる者のことを信仰の強い者と呼んでいる。
違い
教会の中にそれぞれの考え方によって肉を食べる人と食べない人がいた。しかし考え方の違う者たちがいることが問題ではなく、違うもの同士がいがみ合い、裁き合う。それこそが問題だった。
信仰の強いものが、弱いものを軽蔑し、弱いものが強いものを裁いていた、食べるものが食べないものを軽蔑し、食べないものが食べるものを裁いていた。
それこそが問題だったのだ。考えの違うものがいることが問題ではなく、軽蔑し裁いていたことこそが問題だったのだ。
正しい考え方、正しい生き方というのがあって、こうすべきだと真面目に思うからこそ、それとは違う生き方の者を間違っていると思うのだろう。真面目に真摯に考えるからこそ余計にぶつかり合うこともあるのだろう。
しかしパウロは正しさを追求するよりももっともっと大事なものがあると言っているような気がする。
パウロは召し使いの話しをする。他人の召し使いを裁くとは何事か、と。召し使いは主人が裁くのだ。その主人がそれでいいと認めているのにどうしておまえは裁くのか、しかもその主人はおまえの主人でもあるのだ。神がおまえを立たせているように、あの人も立たせているのだ、と言う。
しかも食べる者も主のために食べ、食べない者も主のために食べない、そしてどちらも主に感謝している、と言う。どちらも主のためにして、確信を持ってそうしている、その人を主は立たせて下さっている、というのだ。
なのにどうして兄弟を裁くのか、と言う。キリストが命をかけて罪から救い出した兄弟をおまえはまた罪人にしたいのか、と言っているようだ。
愛
自分の正しさを求めることで誰かを裁いたり傷つけたりしているとしたら、その正しさとは一体何なのかと言われているようだ。
ある人の父親が脳出血で半身不随の後遣症が残り、懸命にリハビリに励んでいたとき、熱心なクリスチャン婦人が見舞いにきてくれた。しかし、その後決まって父親は不機嫌になったり、落込んだりしていた。彼女はいつも、「神の試練」を語り、「神の訓練として耐えること」を語っていたという。励ましのつもりで語っていたのであろうが、心身共に弱っている病人にとっては耐えがたい言葉であったのだ。相手の心を無視した思いやりのない言葉は、その言葉自体は信仰の言葉であり、正しい言葉かもしれないけれいど、時に人を深く傷つけるものである。
あるいは愚痴をこぼす人の話しを聞く時に、苦しいのはあなただけじゃない、みんなそうなんだ、もっと大変な人もいる、なんてことをつい言ってしまうけれど、逆に考えると自分が苦しい時にそういうことを言われても元気は出ないだろうなと思う。そういうのって結構突き放している言い方だなと思う。お前だけじゃないんだからぐだぐだ言うなって言われてるような気もするし。だとするとそれはただ相手を裁いて傷つけているだけということなのかもしれないと思う。
「これは試練だ」というのも、「あんただけじゃない」というのもきっと正しいことなんだろう。しかしそこに愛はあるのか、そこに思いやりはあるのか。
結局相手のことをどれほど心配しているか、そして相手の苦しみをどれほど分かろうとしているか、それこそが大事なことなんじゃないかと思う。
みんなちがって
お前は相手をどれほど大事に思っているのか、どれほど大切に思っているのかと問われているような気がする。
人それぞれに生き方も感じ方も違うわけで、それを乗り越えて受け止めていくことは大変なことだと思う。ただ正しさを追求するといがみ合ったり裁き遭うだけになってしまうだろう。イエスは互いに愛し合いなさいと言った。私たちは正しさよりも愛することを大事にしなければいけないのだろう。互いに神に愛されていることを認めることで、そこで初めて互いの違いを認めあうことができるのではないか、みんなちがってみんないいと思えるのではないか。