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礼拝メッセージより
分からん
聖書はよく分からないと度々思う。結論から言うと今日の箇所はいつにも増して分からない。
秩序
この世はどんなものでもあるべき正しい姿というものがあると思っていた。それに合わないことは間違い、悪と思っていた。親も社会も学校も、あることがあたりまえで、そこに問題があるかもしれないなんてことは思っても見なかった。そしてお上のいうことに間違いがあるかもしれないなんてことは思いもしなかった。子どもの時は。
子どもの頃、家の一番奥に小さな部屋があった。箪笥が並んでいて、そのために狭くなっていたのかな。多分一番静かだったので病気の時にはよくその部屋に寝かされていた。その部屋に確か天皇一家の写真が額に入れて飾ってあった。小さい頃は日本に天皇がいることが当たり前で正しいことのように思っていた。それを疑問に思うようになったのはいつからだろうか。
中学3年の時だったと思うけれど、変わった面白い国語の先生がいた。桧垣巳木三という名前だったと思う。ふつうの授業らしい授業は半分位しかしなかった。いつも社会的な話しをしてくれた。シベリアに抑留されていて、いのししが真っ直ぐ走るとか、氷った湖の上で馬が糞をして、それを蹴ると遠くまで滑っていくとか、下痢気味だと凍り付いてしまって足が痛いなんて話しも覚えている。昔は日教組がストライキをすることがあったけれど、向こうの島の広島県の学校は休みになって子供達がバンザイと言っているのに、こちら側の愛媛県の教師はほとんど日教組に入っていないので休みにならないなんて話しも覚えている。それまで当たり前と思っていたことが当たり前ではないことを知らせてくれた。国語はいつも50点位しか取れなくて嫌いな科目だったけれど、この先生の話しだけは好きだった。
国のことも多分そのころから、いろいろ考えるようになったのではないかと思う。それまでは上から言われることに素直に従うことが正しいことのように思っていたけれど、国も絶対ではないことを知った。いろいろとおかしなことがあることも知るようになってきた。いい先生だった。
権威
国家に対し、私たちはどう考えるのか。パウロは上に立つ権威は神に立てられているものだから従うべきだと言う。
かつて教会もこの言葉によって国家を追認してきたそうだ。かつての戦争の時、天皇も神によって立てられた者であるということから、天皇制国家を支持し、戦争を支持してきた。
そして未だに天皇制とか皇族とか、侵してはいけない神聖なもののようになっている。権力者は本当は皇族に対して「○○さま」という敬称をつけて尊敬しているように見せかけて、実は彼らを利用しているんじゃないかという気もするけれど。
権力者も人間であり完全ではないし間違いだって犯す。なのにパウロはどうしてただ従うべきだなんて言うんだろうか。どう考えればいいんだろうか。
愛
当時の教会の中には国家を否定する急進的な立場に立っている人たちもいたそうだ。自分達は神にのみ従う、だから税金も払わないとか、あるいは神の意に沿わない国家には逆らい革命を目指すようなグループもあったと聞いたことがある。しかしそういう人達は結局は反逆罪で皆殺しにされてしまったそうだ。パウロが権威に逆らう者は裁きを招くと言うようなことが実際にあったようだ。
パウロは自分達の力で悪をなくそうなんてことはしなくてもいい、むしろ税金もきちんと納めて社会の一員としての義務を話しなさいと言っているようだ。
12章の終わりの所で、悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい、と言われている。上に立つ権威に対しても善をもって勝てということか。上に立つ権威が悪であっても、善をもって勝て、そのためにもすべての人々に自分の義務を果たせ、といっているのだろうか。
13章8節以下では隣人愛について言われている。愛することで国家をも変えていく、たとえ悪い国家だとしても、それを革命的に力で変えていくということではなく、愛することで内側から変えていく、それも人間の内側から変えていく、ということかなとも思う。
でもやっぱりよく分からない。しっくりこない感じがする。権威に対しても自分で復讐しないで神に怒りに任しなさいということかもしれないけれど。
パウロはどうして、今ある権威はすべて神によって立てられたものだ、なんて言うんだろうか。確かに旧約聖書を見るとユダヤの国はもちろん神によって立てられたように書いてある。ユダヤを攻める国も、神がユダヤに罰を与えるために遣わしたように書いてあるところもある。そういう考えがパウロにもあってどんな権威も神によって立てられたと言っているのかもしれないとは思う。どんな権威も神が後で糸を引いているという感じかな。
しかし権威者は神に仕える者だという言い方はどうなのかと思う。そんなこと言ってしまうから、先の戦争でも教会は戦争に加担することになってしまったんじゃないかという気にもなる。
どんな権力も神の許しがあってこそ成り立っている、実は神の支配のもとにある、今は悪に染まっていたとしても結局は神が支配しているんだ、そういう意味で今ある権威はすべて神によって立てられたと言っている、結局は全て神の支配の下にあるんだという説教も聞いた。確かにそうだろうなという気もするし、だから権力者が悪となった時にもその復讐は神に任せればいいということかもしれないとは思う。でもやっぱり何だかしっくりこない。
しっかりと
今日の最後の所で、「恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」とある。従うということと敬うということは別々のことだということなんだろう。ただ権力の言うとおりにするのではなく、善も悪もしっかりと見極めなさいということだろうと思う。
しかし神を信じているから、神が第一だからということで税金も払わないというようなわがままなことをしてはいけない。社会の一員として徒に社会の秩序を乱すようなことをしてはいけない。逆に社会の一員としての自分の義務をしっかりと果たしなさい。神を信じているからといって自分の方が正しいからと言って社会を無理やりに思い通りに変えようとするのではなく、また思い通りにならないからとうろたえるのでもなく、愛する者となりなさいと言っているようだ。愛をもって強かに、しっかりと腰を落ち着けて生きなさいと言っているんじゃなかろうか。