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礼拝メッセージより
ペンテコステ
今日はペンテコステ、聖霊降臨日に当たる。イースターから50日目ということで、50番目という意味のギリシャ語からペンテコステという名前がついているそうだ。
イースターはユダヤ教の過越祭の時期の出来事で、それから50日目に五旬祭とか七週の祭りとか刈り入れの祭りと言われる春の収穫祭が行われていて、地中海地方に散らばっていた多くのユダヤ人たちがエルサレムに巡礼にきていたときに、イエスの弟子たちに聖霊が降り、イエスのことを大胆の語ったということが新約聖書の使徒言行録に書かれている。弟子たちがこの時から宣教したということでだと思うけれど、ペンテコステを教会の誕生日というように言うこともあるようだ。
実際弟子たちがこの日に突然元気に力強くイエスのことを話し出したのかどうかはよく分からないけれど、イエスの十字架を前にして逃げ出していた弟子たちが、その後イエスの事を周りの人達に伝えていったのは間違いないことだろうし、だからこそ教会が生まれてきたわけだ。逃げていた弟子たちを力づけたのはやっぱり神の力、聖霊の力というしかないのだろうと思う。見えないし証明しようもないけれども、やっぱりそこには神の力が働いていたとしか思えない。
ところで僕が生まれて初めて教会に行ったのが実はペンテコステだった。随分昔のことになってしまったのでだいぶ記憶も曖昧になってきたけれど、それまで教会とかキリスト教とは無縁の生活を送っていたし、高校を登校拒否していた時でもあったのでとても緊張していた。そのころ大草原の小さな家というアメリカのテレビドラマを放送していて、その中によく教会が登場していて、漠然としたあこがれもあった。それまでの自分の世界とはまるで違う別世界に行きたいという気持ちもあって、結構勇気を出して教会に行った。後で週報を見るとペンテコステと書いてあったのでそうだったんだと覚えているだけで、その日の礼拝でどこの聖書を読んだのか、どんなメッセージだったのかは全然覚えてないけれど、でも新しい世界に入って行けたような気持ちもあってとても嬉しかった。
世に倣うな
教会は僕にとっては未知の世界であったけれど、そもそも教会ってどういうところなんだろう。どういうところだからみんな教会に行くんだろう。
今日のローマの信徒への手紙の中でパウロは、「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」なんてことを言っている。
聖書の他の手紙でも、教会はキリストの体であって私たち一人一人はそれぞれ体の一部分であるということが何回も出てくる。体のそれぞれの部分がそれぞれに役割を持って違う働きをしているように、私たちもそれぞれに役割を与えられているのだからどちらが偉いとかどちらが優れているということはない。それぞれに与えられた賜物によって、つまりそれぞれに神から与えられた能力とか才能とか性質とか性格、そんな神から与えられているものを活かしていくことが大事であるということだろう。
そんなことを敢えて言っているということは教会の中でもどっちが優れているとか劣っているとか、どちらの働きの方が重要だとか下らないとか、そんなことを言っていたのだろう。今日の箇所のすぐ前のところではイスラエル人と異邦人のことが書かれていて、イスラエル人がかたくなになっているのは異邦人が神を信じるようになるためであって、イスラエル人が愚かでダメな民族だからそうなったわけではないというようなことを語っていた。そして今日の所では私たちは互いに大事な身体の部分だと語っている。
パウロはまだ行ったことのないローマの教会へ宛てた手紙にそんなことを書いているということは、ローマの教会でも互いの優劣を競い相手を見下すようなことがあったということか、あるいはそういう問題はどこの教会でも起こりうる問題で、しょっちゅう起こっていた問題でもあったということかもしれないなと思う。
競争
人間が集まるとどうしても競争してしまう、優劣を競ってしまう、そんな性質を人間は持っているような気もする。自分より上の人がいることで落ち込み、自分より下の人がいることで安心する、そんな性質を誰もが持っているのではないかと思う。
ネットでいろんな人が投稿しているのをよく見る。いろんな人が自分のことや周りの人のことを書いているけれど、その中によく年収がいくらとかいう話しがよく出てくる。年収が600万とか700万とか、中には2000万とか3000万とかいう人もいて、そんなのを見ると途端に落ち込んでしまう。お金よりも大事なものがある、なんて思って自分で自分を慰めようと思ったりもするけれど、いつも自分と周りを比べて、自分よりも良いものをいっぱい持っている人を見るとすぐ落ち込んでしまう。
そうやっていつも周りと競争する、周りを競争相手として見ている、競争相手とまでは言わなくても自分と比べる目で見てしまう、それが世の常ではないかと思う。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」(2節)とパウロは言っている。それは偶像崇拝をしてはいけないというようなことなのかと思っていたけれど、そうじゃなくて周りの人を自分と比較するような、そのことで自分が威張ったり落ち込んだりするそんな見方をしてはいけないということを言っているんじゃないかという気がしている。
礼拝の献金の祈りで、「わたしたちが持っているものは皆あなたからいただいたものです」と祈っている。そのことを忘れて、そのことを感謝しないで、自分がどれほど持っているか、そして自分は優れている側か、劣っている側かということばかり注目している、それこそがここで言うこの世に倣うということなのではないかと思う。
私たちは神からそれぞれに違うものを与えられている、だから自分がどんなに優れたものを持っていようと過大に評価してはならないとパウロは言うのだろう。私たちはそれぞれにキリストの体の一部分なのだから、だから互いを尊重し、互いを大事にする、それこそが神の御心でもあり、それこそが善いこと、神に喜ばれ、完全なことなのではないかと思う。
与える
そしてそれぞれに与えられている賜物を活かしていきなさいと言っている。預言の賜物を与えられている者は預言し、奉仕の賜物を与えられている者は奉仕し、教える人は教え、勧める人は勧めに精を出し、施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさいというわけだ。教えと勧めと指導の違いは何だろうと思いつつ、、、。
面白いのはここで出てくるのはこれらはみんな相手のあることだ。奉仕し、教え、勧め、施し、指導し、慈善を行う、みんな相手がいないとできないことだろう。ここで言われていることは自分の持っているものを相手に与えること、つまり自分の持っている技術や力や知恵やお金を相手に与えることばかりだ。
互いに与え合おう、そして自分の周りの者を比べる相手とか競争相手ではなく、自分のものを与える相手として見ていこう、パウロはそう言っているのだろう。そしてそれこそが神に喜ばれることであり、実は私たちにとっても喜びとなることなんだろうと思う。
自分がいっぱい持つことを目指して、いっぱい持つことが喜びとなると思いがちだけれど、本当は持つことよりも与えることの方がよっぽど嬉しいことだと思う。イエスも「受けるよりも与える方が幸いだ」と言ったと書かれているけれど、きっとその通りなんだろうなと思う。
そんなイエスの言葉を一緒に聞く、イエスの思いを一緒に聞く、教会とはそういうところなんだろうと思う。そしてイエスが言うように互いを愛する、互いをいたわる、互いに大切にしあう、そんな教会になっていきたいと思う。
私たちが互いを愛し互いに大切にする思い、互いに大切にする勇気、そして互いに大切にする力を祈り求めていきたいと思う。