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礼拝メッセージより
諍い?
どうしてこんな話しをしているのだろうか。なんでユダヤ人のことをことさらに話さないといけないんだろうか。
パウロはユダヤ人であったけれど、自分は異邦人の使徒だと言って異邦人にキリストを伝えていった。ユダヤ人は律法を守ることで神から義とされる、正しい者と認められると思っていて、神に従うと言うことはその律法を守ることだと考えていたようだ。そして一番象徴的なのが割礼だったのだろうと思う。
ユダヤ人キリスト者の中には、異邦人もキリスト者になるためには先ずは割礼を受けないといけないと主張するひとたちもいたようだ。パウロは自身がユダヤ人であったけれども割礼は必要ではないという立場だった。パウロはユダヤ人として生まれてきたのだろうから当然割礼を受けていたと思うけれど、キリストを信じることこそが大事で、割礼を受けても受けてなくても関係ないと言い切るところはすごいことだと思う。しかし一般のユダヤ人たちにとっては割礼を受けることはあまりにも当然なことで、自分自身も割礼を受けているとなると、それが必要でないと言われても、理屈では理解できても心底そう思うようにはなかなかなれないような気がする。
異邦人キリスト者にとってユダヤ人は律法に縛られてイエスを理解できなかった愚か者、中にはイエスを信じるようになったユダヤ人もいるけれども、それでもいつまでも割礼は大事だといっている律法主義的な思いを捨てきれない分からず屋というか、そんな見方をしていたのではないかと想像する。
つまずき
ローマの教会の中もユダヤ人キリスト者がいて、そんな人達のことをあまり良く思っていない、あるいは見下すような異邦人キリスト者がいたのではないか、だからこそパウロはここでことさらにユダヤ人のことを書いているんじゃないかと思う。
パウロはユダヤ人が神を信じなかった、神を見失ったという話しを繰り返ししている。ユダヤ人は自分たちこそが神に選ばれ神に愛されている民だと思っていたけれども神から離れてしまった、しかしそれでユダヤ人が永久に神から離れてしまうということではない。今は神から離れているとしても、いずれはまた帰ってくる、帰ってほしいとパウロは語る。
今は神に背いている、しかしそのことによって異邦人に救いがやってきた、ユダヤ人の罪によって異邦人に救いがもたらされた。
「ユダヤ人の失敗が異邦人の富となる」という言い方もされている。そしてパウロは失敗しているユダヤ人が皆救いにあずかるとすればどんなにかすばらしいでしょう、とも語る。結局ユダヤ人も異邦人も救われる、ということになればどんなにすばらしいでしょう、という。
さらにパウロはなんとかして自分の同胞、ユダヤ人を幾人かでも救いたい、という。ねたみを起こさせることによって救いたいという。そして彼らが捨てられることが世界の和解になるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう、なんてこともいう。ユダヤ人が受け入れられることは、死者が復活するようなもの、ほとんど死に掛けている民が生き返るに等しい、それほどすばらしいことだという。
接ぎ木
パウロは麦の話しをする。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうである。そりゃそうだろう。根が聖なるものであれば、枝もそうである。麦の話しはそこで終わって今度はオリーブの話しになる。麦の話しよりもオリーブの話しの方がしっくり来ると思って話しを変えたのかな。
栽培されているオリーブの枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたがその変わりに接ぎ木され、根から豊かな栄養を受けるようになった、という話しだ。それまで神につながっていたユダヤ人たちは折り取られ、異邦人がその代わりに接ぎ木された、そして根から豊かな養分を受けるようになった、という。
実際にはオリーブの木は野生の木の根っこに接ぎ木するそうだけれどユダヤ人を野生だとは言いたくなかったのかな。
そこでローマの教会の異邦人たちに対して、だからといって折り取られた枝に対して、つまり神から離れたユダヤ人に対して誇ってはならないという。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなくて、根があなたを支えているのだからと言う。
つまりあなたは接ぎ木してもらって神に支えられて生きるようにされただけだから誇るようなことではない。神を信じるようになったからといって、それは誇るようなことではないという。
高ぶるな
それを誇るということは、かつてユダヤ人が自分達は異邦人のような罪人ではないと威張ったと同じ過ちである、そんな過ちを繰り返してはならないと言うことのようだ。
私たちは自分の力で神につながっているのではない。その資格があるからでもない、ただ神の慈しみによってなのだ。ただ神の憐れみによってなのだ。ただ神の恵みによってなのだ。そのことを忘れて自分がなにか偉いもの、特別なものにでもなったかのように錯覚する、それではユダヤ人の犯した過ちと同じ過ちを犯すことになる。その結果もユダヤ人と同じ様に神を見失い、神から離れていってしまう。
そしてユダヤ人たちもその神の慈しみに頼るようになれば、不信仰にとどまらないなら、接ぎ木されるだろう、という。野生のオリーブでも栽培されているオリーブの木に接ぎ木できるのだから、もとからそのオリーブの枝だったものを接ぎ木するのはたやすいことだ、という。ユダヤ人は異邦人を接ぎ木するために折られた、そして神はまたユダヤ人たちを接ぎ木したいと思っている、だからそんなユダヤ人を見下すのは間違っていると言っているようだ。
信じさせてもらっている
ルカによる福音書でイエスがこんなことを語っている。
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
信じる自分は偉い、真理を知っている自分は偉い、毎週礼拝に来る自分は偉い、いっぱい献金する自分は偉い、そんな風に思っている私たちにパウロは、私たちはただ接ぎ木してもらっただけだと言っているように思う。何の取り得もない私たちを神が接ぎ木してくれて、根っこから栄養と水をもらえるようにしてくれているんだ、そう言っているように思う。
だからそれはまるで誇るようなことではないのだ。私たちはただ神に接ぎ木されて神から水も栄養ももらっている、それはただただありがたくうれしいことだ。
だから私たちがすべきことは、そうされていることを互いに喜ぶこと、一緒に喜び感謝することであり、それこそが私たちにふさわしいことだと思う。
自分の方が偉い、自分の方が立派だと思うこと自尊心をくすぐり嬉しいことだけれど、もっと偉く立派な人を見るとすぐになくなってしまう喜びだ。けれども共に神に生かされていることを喜ぶ、その喜びはいつまでも誰とでも喜べる喜びだ。競争するんじゃなくて共に喜ぼうじゃないか、パウロはそう言っているようだ。