前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
神の霊
8章の前半でパウロは、肉に属し肉に従っている、そしてその罪によって死ぬべき私たちだけれども、そんな私たちに神が宿っている、キリストが宿っているということを語る。神と言ったり神の霊と言ったり、キリストと言ったりキリストの霊と言ったり、例によっていろんな言い方でくどいほど繰り返しているように思う。
キリストが私たちの内にいてくれていて、そのキリストの支配下にいる、そこで死ぬべき私たちが生きるものとされ神の子供とされていると言う。
しかしパウロは、その前の所で私たちは肉を持って生きているために悪をも持っている、罪を持っているということも語っていた。既に神に支配下にあり神に従うという意志を持っている、けれども依然として肉の思いというか罪の思いというか、そういうものも残っているという。
「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(7:25)
苦しみ
パウロは18節でちょっと唐突に「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と語る。
苦しみと聞くと『花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき』と言う言葉を思い出す。全く人生には苦しいことばかりが多いよなあと思う。
苦しいことは避けたいしなるべく避けるけれど、どうしても逃げられない苦しみも襲ってくるものだ。逃げられない苦しみは受け止め耐えるしかない。
一人でその苦しみを受け止めないといけないとなるとこれは大変。一人だけでそれができればすごい。何があっても文句も言わずに耐えることが出来る人はすごい人だ。
大概の人は何かあると文句言ったり、弱音を吐いたりする。でも文句を言うことや弱音を吐くことで、それを聞いてもらうことで苦しみがやわらぐ。自分の苦しみを知ってくれている、と言うことでその苦しみは減ってくる。ところがその弱音を聞いてくれずに、そんな事言うもんではない、なんて言われるともっと苦しくなったりする。
「こんなことをするのはいやだ」、とか「したくない」、「なんでこんな目にあうんだ、ばか野郎」とか言うこと、そしてそれを聞いてもらうことで、心が軽くなることも多い。
しかしここでいう苦しみとはどんな苦しみのことなんだろうか。
生きる上でのいろんな苦しみのことなのかもしれないけれど、すぐ前のところでパウロは、私たちは神の支配の下にあるけれども依然として肉を持って罪を持っている、そして自分の願っていないことをしている、なんてことを語っていた。そうするとここでいう苦しみとは、神を信じ神に従っていこうという思いを持ちながらもなかなかそうできないという苦しみのことを言っているのではないかという気がしてきた。
イエスが言うように隣人を愛そうと思う気持ちを持ちつつ、でもやはり自分の欲望、エゴがその思いにブレーキをかけてしまう、そんな苦しみのことを言っているのではないか。あるいは神を信じたいと思うけれど、そのことで周りとのいろんな摩擦が起こってしまう、そんな苦しみのことも言っているような気もする。
そんな私たちに向かって、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思っています」と語っているような気がする。
祈り
そしてまた苦しむ私たちのために、霊が、神が既に祈っていると語る。しかも私たちの内で祈ってくれていると。
8章の前半のところで、神が私たちのうちにおられると言われていた。そして今日のところではその神、ここでは霊つまり神の霊が私たちの為に祈っている、と言う。私たちのことを祈ってくれている、と言う。こいつのことを頼むよ、と執り成してくれているというのだ。
祈り、それは神を呼び起こすこと、と思っていた。神よ聞いてくれ、俺の祈りを聞いてくれ、こっちを向いてくれと必死に祈らないと聞かれないような気持ちでいた。だから大きな声の方がよく聞こえて言いのかもしれない、と思ったり。
神社で柏手を打つ、がそれは神を呼ぶことだと聞いたことがある。私はこっちに居るからこっちを向いて私の話しを聞いてください、私の願いをかなえてください、と言うことらしい。
祈りとはそういうものだと思っていたが、聖書でいう祈りとはそうでもないらしい。既に霊は祈っている。神の霊が、つまり神が先に祈っている、と言うことは祈りとは、神よこっちを向いてくれ、ということではないらしい。神がこっちを見てくれないかもしれない、見てくれていないんではないかと心配することもない。と言うことだ。心配するどころか、私たちの内にいてくれているというのだ。
うめいてくれる
その私たちの内におられる神が私たちの為に祈ってくれている。しかもうめきをもって祈っている。
うめき、それは苦難の中、苦しみの中、苦悩の中から出てくるものだ。御霊がうめくということは、私たちが苦しみうめいている、その時に御霊が私たちの内におられるということだ。
順風満帆にことが運ぶということだけが神の業ではない。うまくことが運ぶ時にはそれは神の助けで、うまく行かない時は神はそこにはいない、と思いがち。しかし実はそうではない。うまくいかない人生を共に歩み、共にうめくそれが神の業のようだ。
奇跡的に事態が好転させてほしい、それでこそ神だと思う。どうしてそうならないのか、どうして神は私を放っておくのか、本当の神なら、神がここにいるなら、私を救ってみろ、奇跡を起こしてみろ、と思う。私たちの病気をなおしてみろ、私たちの心配を取り去ってみろ、この大変な状態を解決してみろ、と思う。もちろんしてみろではなく、してください、と言うのだが。しかし実際にはそう奇跡は起きない。神はそういう仕方で私たちとかかわっているのではないらしい。
祈っても何も変わらないような時に、神はいない、少なくとも私のところにはいない、私の祈りは聞かれない、私は神に聞かれる祈りが出来ない、奇跡を起こす信仰がない、と思う。
しかしそういううめきを神はしっかりと聞いている、と言うことだ。うめく私たちといっしょに御霊がうめいている、そしてとりなして下さっているというのだ。つまり苦しみのある中でも、そこで生きるように、その力を与えると言う仕方で私たちとかかわっておられるようだ。
私たちの神は、私たちの内にいて、私たちがうめく時に一緒にうめき、私たちが苦しむ時に一緒に苦しむ、そんな仕方で私たちとかかわり、私たちを支えてくれているようだ。