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礼拝メッセージより
異邦人
この手紙を書いたパウロは人間は誰でも、ユダヤ人でも異邦人でも罪を持っていて神に裁かれるべきものであると語る。ユダヤ人は自分達には律法が与えられた特別な民である、律法を守ることによって救われる、割礼がそのしるしだ、というような思いを持っていたようだ。しかしパウロは割礼を受けていても律法を破っているならば救いの証拠でもなんでもない、むしろ律法の精神を守っているかどうか、律法を知らなくても、割礼を受けていなくても、律法の精神を守ることこそが大事なことだ、というようなことを語る。
しかし律法の精神を守り神の前に正しく立てる人間は誰もいない、正しい者はいない、一人もいない、と語る。
ところが
結局人間は自分の力によって、自分の業績によって赦される道はない。罪の裁きから逃れる手段を人間は持ってはいない、神との正常な関係を取り戻す手段を持っていない、人間は、義である正しい神にとっては似つかわしくない者なのだ、。見捨てられてしまっても仕方がない、あるいはそうした方がいいような者だ、ということのようだ。
人間は神から律法を与えられた。それによって義とされる、神に従う正しい道を教えてもらった。ところが現実には律法によって、それを守れない人間、罪を持っている人間というものが却ってはっきりとした、とパウロは語る。
ユダヤ人は自分たちは律法を与えられた特別の民だと自慢していた。そして律法を守ることで義とされるのだから、律法を知らない他の民は義とされることはない、と言って見下げていたようだ。しかしユダヤ人は律法を守ることはできなかった。結局はほかの民と何ら変わらない罪人であったと言うのだ。
贖い
ところがここから話は変わる。「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました。」
律法と預言者とは旧約聖書のことになるけれど、つまり旧約聖書によって証されていた、律法とは別の神の義が示された、つまりそれがイエス・キリストだと言うわけだ。
神の義はイエス・キリストによる贖いの業を通して現されるのだという。
そしてイエス・キリストを信じる信仰によって信じる者に与えられるものであるというのだ。
「贖い」とはもともと奴隷を賠償金を払って買い戻すことだそうだ。罪の奴隷となっている人間を神が買い戻したようなものだ。
贖いとかいう感覚は正直よくわからない。ユダヤ人たちは旧約時代から動物を自分の罪のために身代わりとしてきた。その動物が自分の罪を背負って代わりに罰を受けることで自分の罪が赦されると考えられてきたようだ。そのことで自分は罪のない者とされると考えられてきたようだ。
パウロはイエス・キリストがその犠牲の動物の役割を果たしてくれたことによって自分の罪が贖われると考えたようだ。
理屈は分かるような気がするけれどあまりしっくりこない。しかし兎に角、イエス・キリストによって私たちの罪は清算されて、罪も何もない者として神の前に正々堂々と立つことができるようにされているということだと思う。
正々堂々と
でも実際には私たちは神の前ではなかなか正々堂々と立てない気がする。いろいろと悪いこともしてきた、恥ずかしいこともしてきた、色んな人を傷つけてきた、神の前に立つなんておこがましい、というかなるべくなら隠れていたいような心境だ。
しかしそんな自分が神の前に立てるようにしてくれている、イエス・キリストがそうしてくれた、お土産を何も持っていなくても、立派に生きていなくても、優れたものを何も持っていなくても、何の良いこともしていなくても、逆に後ろめたいことばかりを抱えていたとしても、罪をいっぱい抱えていたとしても、そんなことはまるで何も気にしないで正々堂々と神の前に立てるようにしてくれている、罪も何もない義人として立てるようにしてくれているとパウロは語る。
イエス・キリストがそうしてくれた、そうして私はそうくれているということをただ信じるだけだ、と言っているようだ。
パウロは,行いによって義とされるのではない、ということを強調する。ただ受けるだけなのだ。神の義を受けるのに私たちは無償でいただいたのだ。
だから割礼のあるなしも関係ない。割礼のあるものも信仰の故に義とされ、割礼のないものも信仰により義とされる、という。人間の側がどうしたこうしたというのではない。
律法
では律法はもういらないのじゃないか、と思うけれどもパウロは最後に、律法を確立すると言っている。イエスも、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と語ったことがあった。
律法って字は法律と似ているけれどどう違うんだろう。
法律は違反すると罰せられるけれど、罰せられる境界線をはっきりさせるためにあるんだろうと思う。ここまではいいけれど、ここからはダメですよという一番外側を決めているのだと思う。
律法も、使いようによっては守らない者をこいつは罪人だと決め付けるために使うこともできるだろう。自分は守っていて偉い、それなのにこいつらはけしからんと思うこともある。けれど本来律法は、それを守ることで神との関係を持つためにあるんだろうと思う。神との関係を持ち続けるために、神に近づくためにこういう風にしなさいと言われている教えなんだろうと思う。つまりここから外はダメだという外側の境界線を決めているものではなく、私たちの進むべき道、中心を指し示すものだと思う。
神が人間に律法を与えたのは、神が人間を自分に近づけるためのものなのだと思う。
招き
神はイエスを通して、神から離れてしまった人間を呼び戻しているということだろう。神が人との関係を持とうとしている、それはまさに律法の目指すところであり、律法を確立することになるんだろうと思う。
そうやって私たちは神との正しい関係を持つように招かれている。神は私たちに正々堂々と自分の前に立って欲しいと願っているということだろう。
神は私たちを、お前のここは間違っている、これは駄目だ、というような裁く目では見ていないということだ。裁かれるかもしれないと恐れる必要ななくなっているということだ。イエス・キリストがもうすでにそうしてくれているということだ。
私たちはただそれを信じるだけ、ただそれを受けるだけ、受け取るだけでいい。神はそれを受け取って欲しいと心から願っているようだ。心配しないで、正々堂々と自分の前に立って欲しいと待っているということだ。本当にありがたいことだ。