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礼拝メッセージより
手紙
パウロはどうも視力が弱かったらしい。パウロは別の手紙では最後の方に、こんなに大きな字で自分で書いています、というような事が書かれている。恐らく視力が弱くて自分では小さな字は書けなかったんじゃないかと思う。そしてそれ以外は自分の喋ることをほかの人に書いてもらっていたようだ。
手紙として自分でゆっくりと推敲しながら書いているんじゃなくて、思い浮かんだことを次々と語っているという感じがする。だから同じようなことを何回も繰り返し言ってみたり、本筋を離れて違う話しをしてみたりということもあるように感じる。いかにもそこで喋っているかのように感じるところも多い。だから論文みたいに一語一句どういう意味なんだろうかなんて考えながら読むよりも、全体として何を言っているのかを聞きつつ読んだ方がいいように思う。
罪
今日のところではアダムによって罪が世に入って、その罪によって死が入り込んだなんて話しをしている。旧約聖書の創世記に出てくるアダムが神の命令に背いたことによって全人類に罪が入ったというわけだ。
ユダヤ人たちにとってアダムが神の命令に背いて禁じられていた木の実を食べたというのはお馴染みの話しだろう。最初の人間から神に背いて全人類に罪が入ったということは、人間は誰もがそういう神に背いたという性質を持っている、そういう性質を持って生まれてきているということを言っているのだと思う。そしてパウロはそういう神の命令に従えない、神の命令に背く性質、それを罪と言っているように思う。
罪と言うのは何なのか、本当は考えれば考えるほど分かりにくい。法律に違反したというような意味での罪ということであれば分かりやすいけれど、どうもそういうのとは違うみたいだ。聖書で言う罪とはここでパウロが言うように、生まれながらに持っている神に逆らってしまう、神に従えない性質というようなものなんだろうか。
ふと思ったのは、罪とは神との関係が切れている状態、神とのパイプが繋がっていない、パイプが途中でずれてしまっている、そんな状態のことなんじゃないかという気がしている。パイプがずれてしまっていることで神の愛を受けられないでいる状態、そんな状態のことを罪と言っているのではないかという気がしている。
キリスト
パウロはアダムに対抗するようにイエス・キリストの話しをする。アダム一人にによって罪が入ってきたけれど、今度はイエス・キリスト一人によって賜物が注がれるという話しをする。
一人の罪によって多くの人が死ぬことになった、しかしイエス・キリストの恵みと賜物とは多くの人に豊かに注がれる。
裁きの場合は一つの罪でも有罪の判決が下される、しかし恵みが働くときはいかに多くの罪があっても無罪が下される。
一人の罪によって死は支配するようになった、しかし一人のイエス・キリストを通して生きるようになる。
一人の罪によって全ての人に有罪の判決が下された、しかし一人の正しい行為によって全ての人が義とされて命を得ることになった。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた、しかし一人の従順によって多くの人が正しい者とされる。
なおさら
アダムによって有罪となっていたイエス・キリストによって無罪とされた、正しい者とされたということを繰り返し話している。
そしてただ単純に対応しているのではなく、アダムによって入った罪よりもイエス・キリストによってもたらされた恵みと賜物の方が圧倒的に大きいことだということを伝えたいように感じる。
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みと賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(15節)
「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(17節)
15節と17節に『なおさら』という言葉が繰り返されている。
そして20節では「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」とある。
アダムによって入ってきた罪が、イエス・キリストによってただ帳消しにされただけではないんだと言っている。『なおさら』とか『なお』という言葉を使っているように、アダムによって入ってきた罪とは比べものにならない遥かに大きな恵みと賜物とがイエス・キリストによってもたらされているのだ、ということをパウロは一所懸命に伝えようとしているみたいだ。
愛
罪とは神との関係が途切れている状態、神とのパイプがずれている状態ではないかということを言ったけれど、イエス・キリストはそのパイプを元通りにつなぎ直してくれただけではなかったということなんじゃないかと思う。元のパイプよりも遥かに大きなパイプを繋いでくれたと言ってるようだ。
私たちの無力さも、無能さも、だらしなさも、ダメさも、不甲斐なさも、全部包み込む、そんな圧倒的な大きな神の愛をイエス・キリストを私たちにもたらしてくれたのだ、パウロはそう言っているような気がしている。
全部見えない
昔ファーストミッションというジャッキー・チェンとサモハンキンポーが出ている香港の映画があった。知的障害を持っている兄とその兄の面倒を見ている刑事の弟の話し。
だいぶ前に見たのではっきりとは覚えていないけれど、二人で港に行く場面があった。そこで弟が「大きい船だね」と言うと兄が「分からない」と答える。弟が「どうして」と聞くと兄は「全部見えないから」と答える。そんなシーンがあった。
私たちにも神の愛は全部見えない。だから神の愛の大きさも分からない。でも神の愛は分からない程の大きな愛なのだと思う。そんな大きな愛をイエス・キリストは私たちに届けてくれているのだ。
ダメな自分、だらしない自分、罪深い自分をほとほと嫌になってしまう。しかしそこにはなおさら大きな愛が届いているんだ、パウロは私たちにそう告げているのではないか。