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礼拝メッセージより
受難週
教会暦で言うと来週はイースターになる。それはイエスが甦らされた日、ということ。死んでから甦らされた、そして今週はその死んだという週に当たる。ただ死んだのではなく、苦しんで死んだ。苦しみの週、受難週と言い方をする。
囚人たちは十字架に堅く縛られるか、あるいは釘で打ちつけられる。そして十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続ける。マタイの方では書いてないみたいだけれど、マルコによる福音書によるとイエスは朝の9時に十字架につけられ、昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上で苦しみ続けたことになる。
26章56節を見ると、イエスが捕えられたときに弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ出してしまっている。後でこっそり追ってきたペテロも、まわりの者から、お前もあいつの仲間だろうと問い詰められ、3度イエスを知らないと言う。長い間イエスと生活を共にしてきた弟子たちだった。イエスのいろいろな話も聞き、奇跡も見てきた弟子たちだった。しかし彼らさえ、結局はイエスを見捨ててしまった。イエスについていくことができなかった。
イエスは弟子たちに捨てられ、たったひとりで処刑場へと向かった。そして兵士たちにあざけられ、通りかかった者たちからののしられ、しかも一緒に十字架につけられている者たちからもののしられてしまう。
なぜ
イエスの最後の言葉は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」つまり、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」だった。人々に完全に見捨てられ、そして神からも見捨てられた、その様な状況にイエスは立たされた。イエスはどうしてそのような事を言ったか。
神の子が、どうして絶望して死んでいかねばならないのか。そもそもキリストがどうして殺されてしまったのか。本当にそんな人がキリストなのか。キリストならもっとましな死に方があるのではないのか。神に完全に信頼して、苦痛を耐え忍んで、讃美歌でも歌いながら死ぬべきではないか。キリストなら、神の子ならどうにかしたらどうなのか。そのままじっとして、弱いままで死ぬことはないではないか。そんな気がする。
この時、この光景を見ていた者の中にも、同じように考えている人がいました。42節を見ると、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」と言った人がいたと聖書は語っている。
なにかびっくりすることを、奇跡を見せてくれるなら信じてやろう、と言うのが人間の態度かもしれない。しかも彼らこそがイエスを十字架につけた張本人だった。
このような絶望的な状況から奇跡をおこして勝利する、それこそがキリストである。私たちもそんな風にしばしば思う。
イエスは様々な奇跡を行ってきた。でもこの時はそんなことはしなかった。イエスは敢えてそれをしなかったのではないか。
人は神に助けを求める。苦しいとき、大変な時助けてくれるのが神、そうでなければ意味がない。自分を苦難から救い出してくれてこそ神だ、と思う。だから神は自分に敵対するものをいつでもやっつけることができる。そしていつもそういう者を懲らしめてくれる。そうでないと私を助けることもできないじゃないの、と思う。
神のしるしを見せてみろ、聖書の中でもいろんな人がそういったと書いてある。すごい奇跡をおこしてみろと言う。
私を助けてくれる、その力があることを見せてほしい。光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、それが神のあるべき姿、多くの人はそんな神を求めているように思う。
でもそんな私たちの期待に答えるような姿は十字架の上にはない。まるでしるしはない、そういった方がいいような気がする。敢えてしるしというならば、十字架の苦難をそのままに受けるイエス、それしかない。
イエスは絶望の声を上げて息を引き取った。そんな死に方をする者をだれがキリストだと思うのか、だれが神の子だと思うのか。だれが信じることができるのか、と思う。
しるし
ところが54節に「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」と書いてある。百人隊長とは100人の兵隊の長で、当時イスラエルを支配していたローマの兵隊の指揮官、この人はイエスにいばらの冠をかぶらせ、つばきをかけ、十字架につけた兵士たちのうちにひとりであった。この隊長はイエスを見て、「本当にこの人は神の子であった」と告白している。
孤独に苦しみ、痛みに苦しみ、絶叫して死んでいったイエスを目の当たりにして神の子だ、と告白している。
そこには私たちが求めるような神のしるしといったものは何もない。マタイによる福音書では地震やいろいろな出来事が起こったことで神の子だと言ったと書いている。53節では何故かイエスの復活の後のことまで書かれていて、これは一体いつの話しなのかと思う。マタイによる福音書が参考にしたと言われているマルコによる福音書では、地震の話しもなくただ絶叫するイエスの姿を見て神の子だと言ったと書かれていて、マタイが手を加えたんじゃないかという気がする。
しかしそうするとどうして百人隊長はこんなことを言ったんだろうか。十字架で死んだイエス自身には人間が普通求めているような力強い神の姿はまるでない。その姿はなすすべがなく殺されていった、とも見える。
沈黙
昨日テレビを見ていたら遠藤周作の沈黙の話しをしていた。最近映画にもなったそうだ。
その中で主人公のロドリゴ神父が踏み絵を踏むときにイエスの声を聞くという場面の話をしていた。ロドリゴはイエスの声を聞く。
「踏むがいい、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。」
神がいるならどうしてこんなことが起こるのか、神はどうしてこんなことを許すのか、どうして助けてくれないのか、どうして救い出してくれないのか、どうしてどうしてと思うことがいっぱいだ。
私の願いを、祈りを叶えてくれる、幸せを与えてくれる、苦しみや辛さから解放してくれる、それでこそ神だという気持ちも強い。
しかし十字架のイエスには、そんな神々しい神の姿はない。なぜ見捨てたのかと絶叫し苦しむ姿しかない。しかしそれは苦しむ私たちと共に苦しむというイエスの姿を現しているのかもしれない。
共に苦しむ
イエスは十字架で絶叫した。イエスは私たちの絶叫するような苦しみを誰よりもご存じなのだろう。苦しみがどれほど人を痛めつけるのかも知っているはずだ。祈っても祈ってもよくならない苦しみ、そしてそんな祈りしか出来ないことで自分で自分を責める苦しみ、もう神に見捨てられてしまったと思う苦しみ、そんな苦しみも全部知っている。
イエスはどんな時にも見捨てたりしない。人が皆見捨てても、神など信じない、神などいないと言ったときでも見捨てない。
私たちがなぜ、どうしてこんなことになるのか、どうしてこんなことが起こるのかという時に、神よどうして私を見捨てたのかというイエスが一緒にいる。一緒に苦しんでくれる、一緒に悲しんで暮れる、一緒に悩んでくれる、そういう仕方でイエスは私たちのそばにいてくれるのだ。イエスはどこまでも共にいてくださる。