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礼拝メッセージより
花の命は
林芙美子の「花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき」と言葉がある。最後の「き」がどういう意味なのか未だによく分からないけれど、これを初めて聞いたのはいつだったのかよく覚えていないけれど、何となくこの言葉が嫌いだった。人生の花は短い期間で、苦しいことばかりが多いなんて、そんなのは嫌だ、という気持ちが強くて、この言葉が嫌いだった。嫌いというか認めたくなかった。
でも最近は苦しき事のみ多かりきってのは、その通りかもしれないなあと思うようになった。どうしようもなく、それこそこちらに断りもなくやってくる逃げようのない苦しみってのがいっぱいあるなあと思うこのごろである。
苦しみ
聖書には苦しむイエスが登場する。キリストが、救い主がどうして苦しんだりするのか。キリストは人間を救うことができる。救うために来たのではなかったのか。なのに苦しむのか。
「わたしは死ぬばかりに悲しい」。そんなことを聞くほうが悲しい。キリストがそんなこと言うなよ、どんな苦難にもくじけないで、どんな苦しみにも、なにがあろうとも、ただ黙々と神を見上げていくべきじゃないのか。それこそがキリストではないのか、とさえ思う。
同じことを自分にも思う。なにがあっても平気、だって俺は神を信じているんだから、神がついているんだから、という風になりたい、なれればいい、それこそがクリスチャンだ、という気持ちがどこかにある。
教会の中でも、神を信じていれば大丈夫、心配するな、私も乗り越えてきた、なんて立派な話しを聞くことが多い。苦しみに直面して、悩み悲しみ苦しむことはどことなく信仰者として失格であるかのような見方をしているような気がする。
しかしイエスはここにあるように、この杯をわたしから取りのけてください、と祈っている。この杯、つまりこの苦しみ、十字架ということになるのだろう、この苦難をわたしから取りのけてください、とイエスは祈っている。
これは僕らの祈りと大して変わらないと思う。どうしてこんなことになるのか、こんな苦しみにあわせないでくれ、どうしてこの俺がそんなことにならねばならないのか、どうして、どうして、と言う問いを繰り返し問い続ける。それが私たちの真の姿なのではないかと思う。
そしてイエスもそうだったのだ。イエスがどうして十字架にかからねばならなかったのか。イエスが神であるのならば、そんな死刑になんかならなくてもいいではないか。神の力でどんなことでもできたはずではないか。自分を十字架につけようなんていう不届き者を成敗してしまえばよかったのに。神ならば、そうできたのではないか、と思う。
ではどうしてそうしなかったのか。イエスは神として人間とは別世界の、高い高いところにじっとしてはいなかった、ということだろうと思う。あくまでも人間のところにいた、人間と同じ高さに立っていた、苦難を前にしても、十字架を前にしても、人間であり続けたということなのではないか、神でありながらどこまでも私たちと同じ弱い人間であり続けた。十字架で殺されるまで私たちと同じ人間であり続けたということなんだろう。そして苦しみ続けた。また祈り続けたようだ。
祈り
イエスは三度も祈ったと書かれている。しかも同じ言葉で祈ったとある。ということは祈りに対する答えがなかった、ということだ。答えのないままに祈っていた。3回目の祈りを終えて、やっと立ち上がることができた。答える声が聞こえない、というのがイエスにとっては答えだったのかもしれない。そのまま、というのが神の答えだろうか。答えはないけれども祈らないではいられなかったのだろう。
苦しい状況を変えてくれるように願って祈っても、なにも変わらないことがある。だから神は祈りを聞いてくれないと思う。しかしそれが神の答えだと言うことなのかもしれない。イエスは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈っている。御心は自分の願いとは違うということが最初から分かっているかのようだ。それでも祈るということは、その御心を受け止めること、それこそが祈りなのかもしれないと思う。
御心を受け止めていく、神の声を聞いていくこと、それこそが祈りなのではないかと思う。苦しい状況を、苦しい現実を神の力で変えてもらうためと言うよりも、苦しい現実を受け止めていくこと、現実を受け止める力をもらう、そこで生きていく力をもらう、それが祈りなのかもしれない。
悲しみ
ここでふと気が付いた。なんとなく苦しみと悲しみを混同していたけれど、よく見るとイエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言っている。その前にも、悲しみもだえ始められた、と書かれている。
苦しいから、この杯が過ぎ去るようにと祈っていたと思っていたけれど、そうじゃないんだろうか。悲しいからなんだろうか。何が悲しいのだろうか。
そう思ってネットで色んな教会の説教を見ていたけど、そのことを言っている人はあまりいなかったけれど、日本キリスト教団の花巻教会の牧師が悲しいということに触れていた。これは神に祈っても祈っても答えがない、神は一体どこにいるのか、もう神に見捨てられてしまったのではないか、そんな悲しみではないかと書いてあった、と思う。
それを見てすごく納得した。イエスが、死ぬばかりに苦しいではなくて、死ぬばかりに悲しいと言ったのはそういうことなんだろうと思う。だからこそ弟子たちにも起きて祈っていてくれ、と言ったということなんだろう。イエスはそれほどの悲しみに襲われているということなんだろう。
いつもそばにいるよ
人生には神からも見捨てられてしまったとしか思えない、そんな真っ暗闇を経験することもあるかもしれない。しかしそこもイエスが通った道、しかしそこもイエスの道なのだ。
たとえ神から見捨てられたと思う時も、神なんか信じられなくなったと思う時でも、この宇宙でひとりぼっちとしか思えないような時でも、でもイエスはそこにいてくれている、どんなときでもいつもそばにいてくれているということだ。
私たちはこのイエスに従っていく。どうしてなんだ、やめてくれ、ともだえつつ、神はなにを考えているのか、どこに神はいるのか、神は私を見捨てたのかと問い続け祈り続ける、それが私たちの生き様だと思う。しかしそんな私たちにイエスは寄り添ってくれている。いつもどんな時でもそばにいてくれているのだ。そして「どうして私を見捨てたのか」と叫んでくれているに違いないと思う。