前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
主の晩餐
イエスは大食いで大酒飲みだと言われていたらしいが、聖書の中にも食事の場面がよく出てくる。食事を共にするということを大事にしていたのかな。
後に主の晩餐と呼ばれるようになる出来事も食事の時のことだった。
「これは、私の体である」「わたしの契約の血である」と言う話しも一同が食事をしている時に言った。過ぎ越しの食事だから大事な食事であるが、食事というものすごく日常的なことの中でイエスは大切なことを語った。
「これはわたしの体である」とはいったいどういうことか。もちろんイエスの体をちぎってみんなが食べたわけではない。後に主の晩餐のときのこの言葉を聞いて、クリスチャンは人喰い族だというあらぬ噂を立てられて、迫害されたなんてこともあったという話を聞いたことがある。イエスが「これは私の体である」というのは、私自身を与える、自分の命、自分の思いをお前たちに与えると言うことを意味しているように思う。
また皆で杯から飲んだ後で、これはぶどう酒を飲んだのであろうが、「この杯は多くの人のために流す私の契約の血である」と言った。これも同じく、私は自分の命、命の息吹をおまえたちに与えるということなのだろう。
過ぎ越し
元来過ぎ越し祭は、アビブの月(捕囚後の暦法ではニサン)の1日に一歳の雄の小羊を選び、14日の晩にそれをほふり、その血を入口の柱と鴨居に塗るという祭りだった。かつて出エジプトの際に、エジプトを脱出するときその血を塗った家は神の災いが過ぎ越していったということを記念していた。そして肉は焼肉にし、過ぎ越しの小羊として食べた。その翌日15日から1週間を「除酵祭」として、酵母を除いたパン、種を入れないパンを食べるという祭りだった。種入れぬパンは急いでエジプトから出たときパン種を入れて発酵させる時間がなかったことから、先祖の苦労を象徴しているものだったそうだ。神がエジプトから自分たちの祖先を救い出してくれたことを記念するという祭りだった。
その過ぎ越し小羊の血になぞらえて、イエスは自分の命を持って弟子たちを救う、自分の体を引き換えに弟子たちを生かすという話しをしたということなのだろう。
裏切り
しかしその主の晩餐の前に、弟子の一人が自分を裏切ろうとしているという話しをしている。「生まれなかった方が、その者のためによかった」なんてことまで言っている。ここでは裏切り者と言われているイスカリオテのユダのことを言っているようだ。
そして主の晩餐の後には、その晩ペトロがイエスのことを三度知らないというだろうという話しをし、それに対してペトロも弟子たちも、死んでも知らないなんてことは言わないと答えたということが書かれている。
イエスの弟子たちは立派な人間ばかりではなかった。結局は裏切ってしまうような弟子たちだったようだ。どこまでも信仰深い強い人間ではなかった。
教会では、信じないことは悪いこと、疑うことは悪いこと、弱音を吐くことは悪いこと、のように言われることがある。昔信仰偉人伝なんてシリーズの本があったが、それを見るとみんな勇猛果敢で神を疑うことなんてまるでなく、全幅の信頼を置いている、といった風に書かれている。どこまで本当なのか分からないけれど、そんな本を書く人にも読む人にも、そんな立派な姿こそが信仰者にふさわしいことなのだという思いがあるのんだろうなと思う。
でもそんな本を読んでも、じゃあ私も頑張って同じように立派な信仰者になろう、なんてほとんど思わない。最初は少し思ったとしても、しばらくするとやっぱり私はだめだ思うことがほとんどだ。
でも聖書はペテロや弟子たちがいかに偉くて正しくて立派だったかなんてことは書いていない。反対に弟子たちがイエスを誤解していたこと、そしてみんなイエスを裏切ったということが書かれている。ユダだけではない、みんな裏切ったと書いている。聖書に登場するのは躓いたり転んだり失敗したりの人間ばっかりだ。
教会は、なにがあろうと躓かない人の集まりではない。聖書にも登場しないような立派な揺るがない信仰を持った集まりではないだろう。どんなたいへんなことが起ころうと信仰を立派に守り抜いた人の集まりではない。躓いたことのない、疑ったこともない人の集まりではない。
弟子たちは躓いてばかり、疑ってばかりの人たちだった。とても信仰深い人たちではなかった。ところがその人たちが教会を建てあげていった。というかその人たちを通して神は教会を造っていった。
教会は最初から、いざとなったら逃げ出すような人の集まりだった。神はそこに教会をつくった。そんなんで大丈夫なのかと思う。しかし中にいる人間の質が問題ではない。ただ神に愛され、神の愛を受けている、そんな人間の集まり、それが教会だ。教会とはいざとなると逃げ出し、でもやっぱり行き場がなくて戻ってきてしまう、そんな人間の集まりなんだろう。
私でも
こんな私でも愛されている、と言い方をよくしていた。私はだめな人間だ、こんなにだめな人間だ、でもこんな私でも愛されていると言うことをよく言っていた。
しかしある時、誰かの手紙の中に、こんな私でも、から、こんな私だから、と言うふうに変えられたい、だったかそんなことが書いてあった。
こんな私でも、と言うとき、自分がなにか神から遠いところにて、それでもかろうじて、神にしぶしぶ認めてもらっていると言ったような気持ちでいた。一応神に愛されてはいるのだろうが、かろうじてと言った気持ち。
私を
教会では、私はそんなに信仰は深くない、そんなに立派じゃない、そんなに謙虚じゃない、そんなに偉くない、といった類のことばをよく聞く。それでもどうにかかろうじてクリスチャンをやらせてもらっている、と言った言い方を聞くことがが多いように思う。こんな私でもどうにか神に愛してもらってます、と言ったことばが多い。でも本当にそうだろうか、多分違う。
私たちは神様から神の国の末席に入れて貰っているような気になることが多いのかもしれない。しかしきっと神は私たちを神の国の末席に招いているわけではない、神の国の真ん中に招いているらしい。
こんなだらしない、だめな人間なのにと思う、その私を神はど真ん中におかれているのだと思う。神の国のど真ん中に、そして教会のど真ん中に招いている、置かれているのだと思う。
裏切り者の代表にように言われるユダも、そしてその後イエスの事を知らないと言ってしまうペトロや他の弟子たちも、みんなこの主の晩餐の食事をしている。イエスはそんな弟子たちみんなと食事をしたのだ。
イエスは今こんな私を招いてくれている。こんな私でもかろうじて招いていただいのたではない。この私を招いてくれている。イエスは私たちのすべてを知った上で招いてくれている。私たちの駄目さも罪深さもだらしなさも全部知った上で招いてくれている。そして命をかけて愛してくれているということだ。
こんな私を、この私を愛してくれる、その神の愛をいっぱい受け止めていきたいと思う。