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礼拝メッセージより
結婚式
当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたそうだ。まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いとでも言うべき祝宴が行われる。続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われるそうだ。そこで花婿がまず花嫁の家に向かって来たときに迎えに出る役割を担っていたのがこの十人のおとめということだ。時には町外れにまで出て花婿を迎えることもあるそうだ。
この地方では結婚を盛大に祝って、町中の人が総出でお祝いするそうだ。花婿は花嫁を迎えに行く時に、途中でなるべく多くの人達から祝福してもらうために遠回りをして行ったらしい。時には不意討ちを狙って真夜中になることもあるそうだが、そんな時は先に使者がやってきて「さあ、花婿だ」と知らせたそうだ。そして花婿が到着したら戸がしまり、送れてきた人は参列できないということになっていたそうだ。
今日のたとえでは、出迎え役のおとめたちは夜にともし火を用意して待っていたが、10人のうち5人は壺に油を入れて持っていたが5人は予備の油を持っていなかった、そこで急遽店に買いに行っている間に花婿が到着して宴会に参加できなかったという話しだ。
再臨
今日の箇所の少し前から終末、キリストの再臨の話しが続いている。その中での譬えということで、この箇所も再臨のことのような気もする。締めくくりの言葉が、その時はいつなのか分からないから目を覚ましていなさい、ということになっていて、目を覚ましていないと天の国に入れて貰えないぞと言っているようでちょっと脅しみたいなだなと思った。
では目を覚ましているとはどういうことなのか。今日の話では油を用意しておくということのようだけれど、その油とは何のことなのかという話しになる。いろんな人の説教を見ていると、それは信仰だとか聖霊だとかいう解釈がある、ということだそうだ。どれほど信じているかなんて問われても全く自信がない。聖霊をもっているかなんて聞かれてももっと分からない。信仰にしても聖霊にしても、私はちゃんと持っているから大丈夫、なんて言える人いるんだろうか。
キリストの再臨の時に、ちゃんと準備していないと締め出されるとしたらまるで恐怖しかないと思う。
しかしここはそういう話しなんだろうか。
ある注解書には、「この話しは直接にはユダヤ人に向けられたものである。ユダヤ人は選民であり、かれらの歴史は神の子を迎える準備のためのものであった。かれらは、イエスが来られたときに迎え入れる準備ができているはずであったのに、その準備をしないばかりか、神の子を締め出してしまった。ここは、用意を怠ったユダヤ人の悲劇が描かれている」と書いてあった。
この注解書の解釈によると、このたとえ話は将来イエスの再臨の時の話しというよりも、すでにキリストがやってきているのに、そのことを認められないで除け者にして処刑までしてしまったユダヤ人のことを言っているということになる。つまり花婿はもう来た、キリストは来た、しかし婚宴に入れないでいるユダヤ人たちがいる、キリストの到来を喜べない人がいる、ということを告げているということになる。
そうすると、このたとえは将来キリストの再臨がいつあってもいいように備えよというよりも、もうすでにキリストは来ている、花婿は来ている、あなたたちはそれをどう迎えるのか、この福音書はそのことを私たちに問いかけているような気がしている。
祝宴
このたとえが面白いのは、天の国が婚礼の宴に譬えられていることだと思う。天の国は祝宴のようなものだということだ。花婿が来ると、つまりキリストが来ると祝宴に招かれる、天の国とはそういうものだということだ。
その祝宴から締め出されるようなことにならないように、ということだろう。その祝宴とは、どんなことをしても一緒に祝いたい、あらゆる事態を想定して準備をしてでも行きたくなるような、なんとしても一緒に祝いたくなるような、そんな祝宴なのだ、ということを伝えているのではないかと思う。
そして今私たちはまさに「花婿だ、迎えに出なさい」と声を掛けられているということなのではないかと思う。イエスがやってきた、一緒に喜びなさい、と言われているということではないか。聖書教育にも書いてあったけれど、壺の油とはイエスを迎える、喜びを持って迎える気持ちのことなんじゃないかな。喜びの気持ちを持って、お祝いの気持ちを持って祝宴に来て欲しい、是非一緒に喜んで欲しい、そんな招きを受け取って欲しい、イエスは神のそんな思いを私たちに伝えているのではないかと思う。