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礼拝メッセージより
畑に
どうして畑に宝を隠したりするのかと思う。パレスチナは交通の要衝だった。東は砂漠、西は地中海に挟まれている狭い地域で、南北の列強に何度となく支配されてきた。外国に支配されたり、社会状勢が不安定になったりすることも多かったようだ。
そこで人々は財産を壺などにいれて畑に隠しておく ということをしていたそうだ。そして社会が安定したらそれを掘り返すつもりが、持ち主が死んでしまったりするとそのままになって、後々その畑から宝物が見つかるなんてことは実際にもあったらしい。
小作人
今日の最初のたとえ、ある人が畑で宝を発見したがそのまま隠しておいて持ち物を全部売ってその畑を買う、というものだ。
そうすると畑を耕していた人は畑の持ち主ではないということになる。そうするとこの人は小作人かなにかということになるのだろう。その宝は本来は畑の持ち主のものになりそうだけれど、黙っておいて畑を買ってしまえば自分のものになるという算段だ。はっきり言って卑怯な方法だ思うが、そのことはここでは問題にしていない。とにかく財産を全部売って宝を手に入れるということだ。
真珠
次の譬えは、商人が良い真珠を探していて、高価な真珠を見つけるとこれまた持ち物をすっかり売り払ってそれを買うという。当時は真珠は養殖もしてなくて天然のものしかなかったそうで大変貴重だったそうだ。だから良い真珠を見つけた時には全財産を売り払って買うという話しだ。
天の国
たとえ話の内容自体は単純で分かりやすい。これは何の譬えかというと、天の国のたとえだ。
ちなみに、「天の国」は聖書ではマタイにしか出てこないようだ。マルコやルカでは神の国という言い方をしている。マタイでも神の国という言葉は出てくるが天の国という言い方が多い。
これはマタイの福音書がユダヤ人向けに書かれているからということらしい。旧約聖書の十戒には「神の名をみだりに唱えてはならない」と書かれていることから、ユダヤ人たちは神の名を言わないようにしていて、そんなユダヤ人たちの慣習に配慮してマタイは神の国を天の国という言い方に変えたようだ。だから天の国というのは死んだ後に行くところのことではなくて、神の国、つまり神の支配というような意味合いのようだ。
神の国は私たちが全財産を賭けて手に入れるようなすばらしい宝だ、それくらい価値のあるものだ、だから神の国を手に入れるためには自分のすべてをなげうたないといけない、というか全てをなげうって初めて手に入れることが出来る、だからいろんなものを犠牲にしないことには手に入れることができないのだ、と言っているのだろうとずっと思っていた。ネットを見てもそういう風な説教もある。
でもこの譬えの人たちはいやいや手に入れているわけではない。無理して覚悟を決めてそうしている風でもない。そうではなく、それが欲しくて欲しくて後先顧みず買ってしまったという感じがする。そうすると、神の国を手に入れるためにはいろんなものを犠牲にしなさいとか、覚悟を決めて全財産を献金しなさいとかいうことを言っているのではないような気がしている。
聖書をよく見ると、天の国は畑に隠されている宝のようなもの、とは言っていない。天の国は畑の中の宝にたとえられるというのであれば、天の国は全財産をなげうって手に入れないといけないという話しになると思う。
しかしこのたとは、畑の宝が天の国だとは言っていない。全財産をはたいて宝を「手に入れること」が天の国にたとえられると言っている。
同じように真珠が天の国にたとえられる、とは言っていない。全財産をはたいて真珠を「手に入れる」ことが天の国にたとえられている。
つまり全財産をはたいて大切なものを手に入れることが天の国のことをたとえているのだ。
網と魚
さらにもう一つのたとえが続く。ここでは天の国は、網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集めることにたとえられている。その後に良いものと悪いものをより分けるという話しになっている。
前のふたつの話しの流れから言うと、本来はいろいろな魚を集めるという所で終わっていたら、三つの譬えが同じように並んでスマートだったのにと思ったり、本当のイエスの譬えはそこまでだったじゃないかなんて勘ぐったりもする。
福音書が書かれた時代、終末には裁きがあって良い者と悪い者を分けるという考えはイエスがわざわざ言うまでもなくユダヤ人たちはだいたい持っていたそうだ。その終末を先取りして、教会も良い者の集まりだという考え方を持って、選ばれたエリートだけのグループを作ろうとする者もいたそうだ。
そういう動きに対して、良い者と悪い者を分けるのは天使であって人間ではない、今集まってる自分達は良い者の集まりだなんて考えは思い上がりである、分けるのは終末であって今ではないということを言っているのではないかとおもう。ここで言いたいのは終末には裁きがあるという、もうすでにみんな知っていることの方じゃなくて、良いものも悪いものもいろんな魚をいっぺんにすくい上げる、それが天の国、神の国だということだろうと思う。
何としても
宝のある畑を手に入れること、真珠を手に入れること、魚を手に入れること、それが天の国だとすれば、では手に入れるのは誰なんだろうか。
最近では、この手に入れる主人公は神のことを言っているのではないかという気がしてきている。神が宝を見つけて全財産をはたいて手に入れる、それが天の国、神の国なんだということ。そしてその宝とは実は私たちのことなのではないかと思っている。
つまり、神は私たちのことを宝なのだと言っている、高価な真珠だと言っているような気がする。神は私たちのことを、全財産をなげうってでも手に入れたい、そんな風に見ている、大事に思っているということなのではないかという気がしている。
宝物が欲しくて欲しくてたまらないで、ついつい全財産をなげうってしまったように、神は私たちを自分のものとしたくてしたくて、私たちを神の子としたくてしたくて仕方なかったということなのではないかと思う。
神は自分が無一文になっても手に入れたい、何としても自分のもとに置いておきたい、そんな思いで私たちを見ている、イエスはそのことを伝えているに違いないと思う。