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礼拝メッセージより
湖の上
今日の聖書では、イエスの弟子たちがガリラヤの海の真ん中で逆風と戦っていた。強い向かい風が吹いているために、向こう岸に向かってなかなか前にこぎ出せなかったようだ。
かつて嵐にあったときは、イエスが共にいて波を静めてくれたという話しも載っているが、今度はイエスは舟に乗っていない。暗闇の中で孤独な戦いを、弟子たちだけで戦っていた。
そして夜明け頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへやってきた。しかし弟子たちは、海の上を歩くイエスを見て幽霊を見ているのだとおびえて、恐怖のあまり叫び声をあげたというのだ。イエスに従ってきて、いろんな業もみて、いろんな話しも聞いてきた弟子たちだったが、逆風にあって一晩苦労していたためなのか、イエスだと分からなかったか。流石に水の上を歩いてこられたら誰でもそう思うだろうなという気もする。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、イエスは恐れる弟子たちにそう話しかけた。逆風にあって、自分たちだけではどうにもできずにいた弟子たちに向かって、イエスは、大丈夫だ私がここにいる、と言われたのだ。
このあと、ペトロがイエスの力を見、イエスの言葉を信じて、自分も水の上を歩こうとして、溺れそうになる。純粋というか単純というか、そんなペトロらしいエピソードだ。ペトロは、「来なさい」というイエスの言葉に従ってイエスのところへ行こうとする。ところが、風を見て恐くなると沈みそうになってしまったというのだ。
しかしそんなペトロをイエスはすぐに手を伸ばして捕まえてくれた。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言った。
そして、イエスが船に乗りこんだ時に風が止み、弟子たちは改めてイエスの力を知ることになった。そんな話しだ。
たとえ
詩編の中には祈る者が水の中から救われるということが書かれている。
「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ 大水の中から引き上げてくださる」(詩編18:17)
「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み 足がかりもありません。大水の深い底まで沈み 奔流がわたしを押し流します」(詩編69:2-3)
また教会は昔から船にたとえられきており、今日の話しは、イエスが実際に水の上を歩くことができたというよりも、教会が絶体絶命のピンチになった時にもイエスが助けに来てくれるということを伝えるための話しなのだと思う。
イエスを見る
弟子たちは夕方から夜明けまで舟を漕いでどうにかして舟を進ませようとしていたがうまくいかなかった。かつて嵐を鎮めたイエスもそこにはいなかった。しかしイエスは離れてはいたけれども、弟子たちのことを放っておいたわけではなかった。まるで知らん顔ではなかった。苦闘する弟子たちのところへ自分から近づいていくのだ。水の上を歩いていくなんてことをしてまで弟子たちのところへいき、弟子たちを救うのだ。
ペトロはイエスの言葉に従い水の上を歩いていくが、風を見た途端沈みそうになってしまったという。イエスを見つめている間は大丈夫だったのに、イエスから目を離し風を見てしまうと沈みそうになってしまった。これもとても象徴的なことのように思う。
私たちも逆風の中を生きている。私たちの人生にもいろんな逆風が吹くときがある。そんな時でもしっかりとイエスを見ていけば大丈夫ということなんだろう。安心しなさい、というイエスの言葉をしっかりと聞いていけるならば大丈夫なのだろう。イエスから目を離すことで、そして風を見ることで恐くなり沈みかけてしまう。逆風という風を見ることで深みに沈みそうになってしまう。風ばかり見てしまうのも私たちの常だ。大変な問題を抱えているとき、私たちはついついその問題ばかりに目を奪われてしまう。いつもいつもその問題が頭の中を駆けめぐってそればかりしか見えなくなってしまい、そうなるとどんどん深みにはまってしまう。
誰の人生にも心配なことがいっぱいあるのだろう。みんなそれぞれに心配なことを抱えて生きている。どうにもこうにもうまくいかない、全く前に進めない、まるで見通しがたたない、お先真っ暗、そんな重大事を抱えているかもしれない。そんな重大事に、心配事によって沈みかけている私たちをもイエスはきっと手を伸ばして捕まえてくれる、そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と声をかけてくれているに違いない。心配事しか見えない、うまくいかないことがらしか見えない、そしてイエス自身を見ていない私たちに向かって、イエスは、「安心しなさい、私はここにいる、私を見なさい」と言われているのではないか。信仰の薄い者よ、とは言われているけれども、その時にはもうすでにペトロの手をしっかりと捕まえている。この言葉はペトロをひどく問いつめるような、責めるような言葉ではなくて、お調子者だけど可愛くて仕方ない、というような気持ちのこもった言葉だったんじゃないのかなと思う。
助けてくれ
ペトロは風を見て恐ろしくなり沈みかけた時に「主よ、助けてください」と叫んだという。
助けてくれと言える相手がいることはとてもいいことだと思う。
昔、女子高生コンクリート詰め殺人、とかいう本を読んだことがある。女子高生を何人かで監禁していたずらして殺してしまい、結局コンクリート詰めにしてしまうという話しだったと思うが、その犯人の若者たちの裁判の時だったか、若者たちの親の話しが出てくる。本を読んでいると自分の子どもが殺人犯になってしまった親の苦しみが伝わってくるようだった。
自分の子どもが事件を起こしてしまっている、とんでもない事件を起こしてしまっている、相手は殺してしまっている、その現実に親は苦しくて苦しくてどうにもならないという感じだった。自分がそんな立場になったとしたら、なんて思うと読んでるこっちも苦しくなってくるみたいだった。この親たちはその現実からは逃げようがない。そして逃げ場のない苦しみにもがいているという感じがした。そんな時にふと思ったのが、この親たちはどうして祈らないのだろう、ということだった。
僕は何かあるとすぐに「祈りましょう」というような敬虔な牧師ではないけれど、そんな僕でもどうして祈らないのだろう、祈るということを知らないのだろうかと思った。そして実は祈る相手がいないんじゃないだろうかと思った。祈る相手がいなければ苦しみを自分ひとりで抱えていかないといけない。それはとても辛いことじゃないかと思った。
助けてくれ、と言える相手がいること、そう祈る相手があることはとても幸せなことなのだと思った。どうにもならないと思えるような苦しみもある。そんな時に、助けてくれと祈れる相手があることはどんなに幸せなことだろうかと思う。おまえといっつも一緒にいる、世の終わりまで共にいる、おまえの言葉は聞いている、そう言ってくれる相手がいることはどんなに幸せだろうかと思った。
時々嫌な夢を見る。学校のテストが解けないとか、出席日数が足りないからもう欠席できないのに学校にたどり着けないとか、結婚式の時間が迫っているのにホテルにたどり着けない、早く歩きたいのに足が思うように動かないなんてことも多い。
戦争でいっぱい人を殺した人が、戦後何年もたってるのに夢でうなされるなんて話も聞く。取り返しのつかないことをしたという重荷がそうさせるのだろうか。夢というのはとてもやっかいだ。目覚めている時なら安全な所へ逃げていける。でも夢の中で追いかけられたら逃げようがない。
逃げようがない重荷を背負わされたら私たちはどうしたらいいのだろうか。どこに助けを求めたらいいのだろうか。結局は神に求めるしかないんだろうと思う。主よ、助けてください、って言うしかない。
でも私たちにはイエスがいる。目には見えないけれど、どんな大変なときでも共に居てくれているイエスがいる。助けてくれ、と言うことのできるイエスがいつも共にいてくれている、私たちは決してひとりぼっちじゃない、何があってもひとりぼっちになることはない、今日の話しはそのことを伝えてくれているのだと思う。